“開祖”植芝盛平 合気柔術武田惣角から柳生新陰流剣術の武術を集め合気道を作り体重差40kg以上の力士を投げ飛ばした歴史的真実!
合気道

最近はYouTubeでのコラボなどを中心として何かと話題に上っている武道、および格闘技と言えるかもしれない。
その摩訶不思議さ、神秘性、そこに皆憧れを抱き、幻想を抱き、追い求めている。
そもそもが日本以外の海外で、武道が広まった一因に、そういったへ単純なスポーツや格闘技にはない、分かり得ない、複雑さが大きなものであった事は間違いないだろう。
小さな者が、何気ない動作で、大きな男をなぎ倒す、合気道、曲がりなりにも極真空手を20年以上やってきた私から見て、どう捉えるか?
まず、かなり古い時分のことであるが、私の先生に、合気道について聞いたことがあった。
曰く、合気道とは超高等技術であり、それを会得したものは、道に達した者であり、強さを得ているが、そこまで到達するのはたやすいことではなく、達することができなければ、強さを見いだす事は難しい。
その先生にして、極真空手家としては非常に卓越した技量を得ているとされており、おおよその技能に関してはそうそうそのような言葉遣いをしない人だったので、超高等技術と言うその言葉には、重みがあると捉えていた。
そんな折、その第一人者であり、最も高名な人物の1人とも言える、塩田剛三、その彼の考えに触れる機会があった。
その中で、合気道とは何か、塩田剛三とは何者か、実践の場、修練の場、試合の場、そこにおいて、どのような威力を発揮し、どのような強み及び弱点を有しているのか、それを考える機会に恵まれた。
そこで、それについて語るにあたって、まず押さえておきたいというか、非常に重要な人物を知る機会に恵まれたので、そこから始めてみたいと考えた。
植芝盛平。
言わずもがな、それまで合気柔術と言う名前であり、体型、存在であったそれは、合気術、合気道と言う現在の形を体系化して作り上げた、"開祖"として知られている現在の合気道の父であり、最も重要な人物と言えるだろう。
その事実は、知ってはいたものが、その彼の実力、いつもについては、失礼ながらこれまで不勉強であった。
何しろご活躍された時代というのがかなり古いので、映像としても、もちろん特集された番組というのがなかなか見つからず、文献を探すのにも苦労したというのが実際だった。
私は空手家ではあるが、同時にオタクでもあるので、いくつかの漫画で彼をモデルにしたであろう作品を見かけてきた中、そのどれもがどうしてもメインで活躍させたい、塩田剛三をモデルにしていたであろうキャラクターの引き立て役的な立ち位置なものが多かった。
「喧嘩商売」と「グラップラー刃牙」
「喧嘩商売」と言うタイトルから「喧嘩稼業」と言う現在ではタイトルで連載が続けられている現実にある格闘技をモデルとした漫画の中では、
芝原剛盛という、名前はどちらかと言うと塩田剛三と植芝盛平を足して2で割ったの名前のキャラクターが現れており、なんとなく立ち位置的には塩田剛三のような感じで、その彼が師匠の植芝盛平っぽいキャラクター植田良沢に対して、大山倍達をモデルにしたであろう牛を殺した空手家、山本陸に勝てないだろう、オイラを倒してみろと煽り、山突きで顔面を陥没させ、回転投げで頭を打ちつけ勝利すると言う場面がある。
そして格闘技漫画というかバトル漫画といったほうがいいかもしれないグラップラー刃牙の中では、
やはり植芝盛平のモデルであろう御輿芝喜平が弟子たちに刃物を持って周りを囲まれて、それを戦うことなく制すると、それがまやかしであると暗に示し、立ち会いに持っていき、方のそうした中で向き合い、塩田剛三がモデルであろう渋川剛気の拳を取り、投げたところ、渋川剛気が投げられながらも足により喜平の足を掬い、バランスが崩れたところを襲いかかろうとしたところで、刀を取らせ、背中を斬らせてそれを免許皆伝として、実質的に勝利と言う描き方をしている。
両氏の漫画の描き方上そうなってしまうのはある意味仕方なかったが、それゆえに真実の植芝盛平の話を知り、私はその実態を知り、正直戦慄せざるを得なかった。
若き日に天神真楊流柔術、柳生心眼流柔術等を学び、さらには柳生新陰流剣術、各武術の修行にも精通し、武田双角と出会い、大東流合気柔術の門下に入り、それまでの古来の各流各派の武道の精髄、その後大本教の宗教観を武道に取り入れ、独自の工夫を加えて、和合、万有愛護などを理念とする、合気道を創始したと言う。
身長は156センチにして、その卓越した神技によって投げ飛ばす様から柔の極みのように取り扱われることが多いが、実際のところ幼少の頃よりその様々な武術武道の修練、および軍隊での激しい鍛錬などによって、北海道開拓に参加しての伐採作業により、豪力と呼ばれるほどのパワーを誇っていたと言い、体重は20歳の時で75キロを誇り、坂道を転落した馬車ごと上まで押し上げたなどの逸話も残っているという。
あの講道館柔道の創始者、嘉納治五郎をして、その演武を見てこれこそ真の柔道だと賞賛したと言い、当初の道場である皇武館ではその秘技を無頼の輩に悪用されぬように、身元の足しから2人以上の保証人も条件とし、皇族、家族、軍人、警察官、実業家、武道家の子弟など1部の層に限られていたと言う。
その彼の逸話として人とも言えるものが、もっと大相撲力士、天竜を投げたと言うものだろう。
天竜を投げる
1939年春、満州国新京で行われた日本武道を紹介するために行われた演武会で植芝盛平が演武を披露したところ、喝采が起こると同時に、そのあまりの流麗ゆえに、ヤラセではないのかと言うざわめきが起こりそれを察し、
おそらくあなた方はこんなにうまくいくはずがない、馴れ合いでやっていると思われるでしょう。あなた方は武道をやっておられるから、我と思わん方は、このじいさんの所へ来てください、と腕試しを呼びかけたと言う。
それに応じたのが、その会を主催していた満州国武道会常務理事の元大相撲関脇天竜だったという。
その時天龍は34歳、身長187センチにして現役時代の体重は116キロと言い、対する植島盛平和55歳、年齢さは20歳、身長さは30センチ、体重さは40キロにも及ぶと思われる。
それに植芝盛平は、
あんた天龍さんじゃないですか、あんたもおそらくこのじじいが、こんなにうまく投げられるとは思わないだろう。しかし武道と言うものは、そんなものじゃない。
そう言って左手の方が弱いからと左手を差し出し、
あんたは力もつよいだろう。力も何も入れてないから何をしても良い。やってごらんなさい、と語ったと言う。
それに天龍は、このじじぃ何を言っていると思い、手をつかんだが、その途端ハッとさせられたと言う。
まるで鉄棒をつかんだような感じ。
それに相撲家にして、いろいろなことを知っている天竜川これはいかんと思い、とにかくネジあげてみようとグッとやったが、びくともしない。
それで両手を使って力いっぱいやろうとしたところ、その力を使われ、ドーント派手にひっくりかえされたと言う。
それにより天竜は大いに驚きを覚え、その晩に植芝盛平の元へ訪ねて弟子入りを懇願し、終生交流が続いたと言う。
その時のことを植芝盛平は、ちっとも大きいとは思わん、遥か下に見下ろしている気がして、手のひらに乗せたらそのまま握りつぶしてしまえばいいじゃないか、と感じたと言う。
我々が当たり前に見えている世界、身長体重のハンデ、パワー、それによって発生する威圧感、そういう次元とは違う世界、まさに新たな世界を開拓した、"開祖"としての、その真の実力、秘密が、垣間見えたエピソードと言えるだろう。
神技
同様のエピソードとして同じく朝鮮半島で大きな武道の大会で開催され、植芝盛平が招かれ演舞をした際に挑んできたのが、史上最強の柔道家と謳われる木村政彦のライバルと言われていたMと言う選手で、大人と子供の体格差の中いきなり植芝盛平の送り襟を取り、引きつけてはね腰にいこうとしたところ、その巨体がそのままへなへなと床に崩れ落ち、場内は騒然になったと言う。
これは相手が懐に入ってきた瞬間を捉え、植芝盛平が相手の腰にポンと拳を当て、そのタイミングのあまりの良さに骨が砕け、再起不能になってしまったと言うから驚愕の事実と言えるだろう。
さらにはその威力は日本の武道にも遺憾なく発揮され、後に講道館柔道史上最強と歌われた木村政彦に勝利することになる柔道家、阿部健四郎が葡萄専門学校時代に汽車内で向かいの席となった際に、私は君を知っているよと声をかけられ、適当にあしらっていたところ、この小指を折ってみなさいと言われ、いらつき、黙らせるために思いっきり握ったその瞬間、車両の床に組み伏せられ、その場で弟子入りし、10年間合気道を習うことになったと言う。
その逸話はとどまることを知らず打撃系、格闘技の頂点である、ボクシング界で最強を極め、現在では"拳聖"と崇められるピストン堀口が、ボクシングに合気道の動きを取り入れたいと言うことで植芝道場に習いに来た際に、植芝盛平がついてきなさいと話し、それにストレートを打ったところ、その目にも止まらぬパンチを植芝盛平は鷲掴みにして、引っ張り込んで下から顎しゃくりあげ、投げ飛ばしてしまったと言うから凄まじい。
畳から身を起こしながら、ピストン堀口は目を丸くして驚いていたと言い、その右拳には人差し指と中指と薬指の付け根に植芝盛平の指が入ったらしく、赤い痣がいくつも付いていたと言う。
その神技は実戦にも絶大な威力を発揮し、憲兵学校で集団の待ち受け襲撃を受けたおりなどは、身の回りがおかしいといち早く気づき、草むらから30人ほどが出てきても慌てることなく、手に持っている木刀や木銃をヒラリヒラリと躱し、ちょんちょんと突いてやると面白いように転がり、結果的にその襲撃した者たちはその獲物の重さゆにふり回され、ものの5、6分で息切れを起こし、戦意を喪失させてしまったと言う。
しかしてその最大の高弟とも言える塩田剛三を唸らせたのが、彼曰く、植芝盛平だけが持つ神秘力だと言う。
塩田剛三がお付きの者をしており、汽車に乗った際武田双角からいただいたと言う鉄扇を受け取り、もしに隙があったら、いつでもこれで殴ってきなはれ。
もし殴れたら、あんたに十段をやろう。と言われ、しめしめと塩田剛三は寝息を立てているのを見計らって打ち込もうとした時、植芝盛平はカッと目を見開き、それに塩田剛三は動きが止まってしまい、それを見て植芝盛平は微笑みながら
今、夢の中に神さんが現れてな、塩田が叩くぞ、塩田が叩くぞ、と教えてくださったんじゃ
と語ったと言う。
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