“開祖”植芝盛平 合気柔術武田惣角から柳生新陰流剣術の武術を集め合気道を作り体重差40kgの力士を投げ飛ばした歴史的真実!

2024年4月9日

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合気道

最近はYouTubeでのコラボなどを中心として何かと話題に上っている武道、および格闘技と言えるかもしれない。

その摩訶不思議さ、神秘性、そこに皆憧れを抱き、幻想を抱き、追い求めている。

そもそもが日本以外の海外で、武道が広まった一因に、そういったへ単純なスポーツや格闘技にはない、分かり得ない、複雑さが大きなものであった事は間違いないだろう。

小さな者が、何気ない動作で、大きな男をなぎ倒す、合気道、曲がりなりにも極真空手を20年以上やってきた私から見て、どう捉えるか?

まず、かなり古い時分のことであるが、私の先生に、合気道について聞いたことがあった。

曰く、合気道とは超高等技術であり、それを会得したものは、道に達した者であり、強さを得ているが、そこまで到達するのはたやすいことではなく、達することができなければ、強さを見いだす事は難しい。

その先生にして、極真空手家としては非常に卓越した技量を得ているとされており、おおよその技能に関してはそうそうそのような言葉遣いをしない人だったので、超高等技術と言うその言葉には、重みがあると捉えていた。

そんな折、その第一人者であり、最も高名な人物の1人とも言える、塩田剛三、その彼の考えに触れる機会があった。

その中で、合気道とは何か、塩田剛三とは何者か、実践の場、修練の場、試合の場、そこにおいて、どのような威力を発揮し、どのような強み及び弱点を有しているのか、それを考える機会に恵まれた。

そこで、それについて語るにあたって、まず押さえておきたいというか、非常に重要な人物を知る機会に恵まれたので、そこから始めてみたいと考えた。

植芝盛平。

言わずもがな、それまで合気柔術と言う名前であり、体型、存在であったそれは、合気術、合気道と言う現在の形を体系化して作り上げた、"開祖"として知られている現在の合気道の父であり、最も重要な人物と言えるだろう。

その事実は、知ってはいたものが、その彼の実力、いつもについては、失礼ながらこれまで不勉強であった。

何しろご活躍された時代というのがかなり古いので、映像としても、もちろん特集された番組というのがなかなか見つからず、文献を探すのにも苦労したというのが実際だった。

私は空手家ではあるが、同時にオタクでもあるので、いくつかの漫画で彼をモデルにしたであろう作品を見かけてきた中、そのどれもがどうしてもメインで活躍させたい、塩田剛三をモデルにしていたであろうキャラクターの引き立て役的な立ち位置なものが多かった。

「喧嘩商売」と「グラップラー刃牙」

「喧嘩商売」と言うタイトルから「喧嘩稼業」と言う現在ではタイトルで連載が続けられている現実にある格闘技をモデルとした漫画の中では、

芝原剛盛という、名前はどちらかと言うと塩田剛三と植芝盛平を足して2で割ったの名前のキャラクターが現れており、なんとなく立ち位置的には塩田剛三のような感じで、その彼が師匠の植芝盛平っぽいキャラクター植田良沢に対して、大山倍達をモデルにしたであろう牛を殺した空手家、山本陸に勝てないだろう、オイラを倒してみろと煽り、山突きで顔面を陥没させ、回転投げで頭を打ちつけ勝利すると言う場面がある。

そして格闘技漫画というかバトル漫画といったほうがいいかもしれないグラップラー刃牙の中では、

やはり植芝盛平のモデルであろう御輿芝喜平が弟子たちに刃物を持って周りを囲まれて、それを戦うことなく制すると、それがまやかしであると暗に示し、立ち会いに持っていき、方のそうした中で向き合い、塩田剛三がモデルであろう渋川剛気の拳を取り、投げたところ、渋川剛気が投げられながらも足により喜平の足を掬い、バランスが崩れたところを襲いかかろうとしたところで、刀を取らせ、背中を斬らせてそれを免許皆伝として、実質的に勝利と言う描き方をしている。

両氏の漫画の描き方上そうなってしまうのはある意味仕方なかったが、それゆえに真実の植芝盛平の話を知り、私はその実態を知り、正直戦慄せざるを得なかった。

若き日に天神真楊流柔術、柳生心眼流柔術等を学び、さらには柳生新陰流剣術、各武術の修行にも精通し、武田双角と出会い、大東流合気柔術の門下に入り、それまでの古来の各流各派の武道の精髄、その後大本教の宗教観を武道に取り入れ、独自の工夫を加えて、和合、万有愛護などを理念とする、合気道を創始したと言う。

身長は156センチにして、その卓越した神技によって投げ飛ばす様から柔の極みのように取り扱われることが多いが、実際のところ幼少の頃よりその様々な武術武道の修練、および軍隊での激しい鍛錬などによって、北海道開拓に参加しての伐採作業により、豪力と呼ばれるほどのパワーを誇っていたと言い、体重は20歳の時で75キロを誇り、坂道を転落した馬車ごと上まで押し上げたなどの逸話も残っているという。

あの講道館柔道の創始者、嘉納治五郎をして、その演武を見てこれこそ真の柔道だと賞賛したと言い、当初の道場である皇武館ではその秘技を無頼の輩に悪用されぬように、身元の足しから2人以上の保証人も条件とし、皇族、家族、軍人、警察官、実業家、武道家の子弟など1部の層に限られていたと言う。

その彼の逸話として人とも言えるものが、もっと大相撲力士、天竜を投げたと言うものだろう。

天竜を投げる

1939年春、満州国新京で行われた日本武道を紹介するために行われた演武会で植芝盛平が演武を披露したところ、喝采が起こると同時に、そのあまりの流麗ゆえに、ヤラセではないのかと言うざわめきが起こりそれを察し、

おそらくあなた方はこんなにうまくいくはずがない、馴れ合いでやっていると思われるでしょう。あなた方は武道をやっておられるから、我と思わん方は、このじいさんの所へ来てください、と腕試しを呼びかけたと言う。

それに応じたのが、その会を主催していた満州国武道会常務理事の元大相撲関脇天竜だったという。

その時天龍は34歳、身長187センチにして現役時代の体重は116キロと言い、対する植島盛平和55歳、年齢さは20歳、身長さは30センチ、体重さは40キロにも及ぶと思われる。

それに植芝盛平は、

あんた天龍さんじゃないですか、あんたもおそらくこのじじいが、こんなにうまく投げられるとは思わないだろう。しかし武道と言うものは、そんなものじゃない。

そう言って左手の方が弱いからと左手を差し出し、

あんたは力もつよいだろう。力も何も入れてないから何をしても良い。やってごらんなさい、と語ったと言う。

それに天龍は、このじじぃ何を言っていると思い、手をつかんだが、その途端ハッとさせられたと言う。

まるで鉄棒をつかんだような感じ。

それに相撲家にして、いろいろなことを知っている天竜川これはいかんと思い、とにかくネジあげてみようとグッとやったが、びくともしない。

それで両手を使って力いっぱいやろうとしたところ、その力を使われ、ドーント派手にひっくりかえされたと言う。

それにより天竜は大いに驚きを覚え、その晩に植芝盛平の元へ訪ねて弟子入りを懇願し、終生交流が続いたと言う。

その時のことを植芝盛平は、ちっとも大きいとは思わん、遥か下に見下ろしている気がして、手のひらに乗せたらそのまま握りつぶしてしまえばいいじゃないか、と感じたと言う。

我々が当たり前に見えている世界、身長体重のハンデ、パワー、それによって発生する威圧感、そういう次元とは違う世界、まさに新たな世界を開拓した、"開祖"としての、その真の実力、秘密が、垣間見えたエピソードと言えるだろう。

神技

同様のエピソードとして同じく朝鮮半島で大きな武道の大会で開催され、植芝盛平が招かれ演舞をした際に挑んできたのが、史上最強の柔道家と謳われる木村政彦のライバルと言われていたMと言う選手で、大人と子供の体格差の中いきなり植芝盛平の送り襟を取り、引きつけてはね腰にいこうとしたところ、その巨体がそのままへなへなと床に崩れ落ち、場内は騒然になったと言う。

これは相手が懐に入ってきた瞬間を捉え、植芝盛平が相手の腰にポンと拳を当て、そのタイミングのあまりの良さに骨が砕け、再起不能になってしまったと言うから驚愕の事実と言えるだろう。

さらにはその威力は日本の武道にも遺憾なく発揮され、後に講道館柔道史上最強と歌われた木村政彦に勝利することになる柔道家、阿部健四郎が葡萄専門学校時代に汽車内で向かいの席となった際に、私は君を知っているよと声をかけられ、適当にあしらっていたところ、この小指を折ってみなさいと言われ、いらつき、黙らせるために思いっきり握ったその瞬間、車両の床に組み伏せられ、その場で弟子入りし、10年間合気道を習うことになったと言う。

その逸話はとどまることを知らず打撃系、格闘技の頂点である、ボクシング界で最強を極め、現在では"拳聖"と崇められるピストン堀口が、ボクシングに合気道の動きを取り入れたいと言うことで植芝道場に習いに来た際に、植芝盛平がついてきなさいと話し、それにストレートを打ったところ、その目にも止まらぬパンチを植芝盛平は鷲掴みにして、引っ張り込んで下から顎しゃくりあげ、投げ飛ばしてしまったと言うから凄まじい。

畳から身を起こしながら、ピストン堀口は目を丸くして驚いていたと言い、その右拳には人差し指と中指と薬指の付け根に植芝盛平の指が入ったらしく、赤い痣がいくつも付いていたと言う。

その神技は実戦にも絶大な威力を発揮し、憲兵学校で集団の待ち受け襲撃を受けたおりなどは、身の回りがおかしいといち早く気づき、草むらから30人ほどが出てきても慌てることなく、手に持っている木刀や木銃をヒラリヒラリと躱し、ちょんちょんと突いてやると面白いように転がり、結果的にその襲撃した者たちはその獲物の重さゆにふり回され、ものの5、6分で息切れを起こし、戦意を喪失させてしまったと言う。

しかしてその最大の高弟とも言える塩田剛三を唸らせたのが、彼曰く、植芝盛平だけが持つ神秘力だと言う。

塩田剛三がお付きの者をしており、汽車に乗った際武田双角からいただいたと言う鉄扇を受け取り、もしに隙があったら、いつでもこれで殴ってきなはれ。

もし殴れたら、あんたに十段をやろう。と言われ、しめしめと塩田剛三は寝息を立てているのを見計らって打ち込もうとした時、植芝盛平はカッと目を見開き、それに塩田剛三は動きが止まってしまい、それを見て植芝盛平は微笑みながら

今、夢の中に神さんが現れてな、塩田が叩くぞ、塩田が叩くぞ、と教えてくださったんじゃ

と語ったと言う。

神秘力

他にも塩田剛三を始めとする家弟子たちが道場に布団を敷いて眠り、植芝盛平が奥の部屋でお休みになっているとき、いきなり奥の部屋が開いて、植芝盛平が木剣を片手に真っ暗な道場へ飛び出してきたと言う。

そして暗闇の中でキエーッという試合とともに、何かに向かって斬り付けたと。

何が起こったのか分からずに明かりをつけると、仁王立ちになった植芝盛平の足元に、首の飛んだネズミの死体が転がっていたのだと。

バカモーン!

ネズミが神さんのお供えをかじっていると言うのに、神棚の前で寝ていたおまえらが、なんで気づかんのじゃ!

私たちがそれに気づかなかったからと怒られても、わかるはずがなく、隣の部屋で寝ていた植芝盛平が気づき、木剣で首をはねると言う…ある意味信じがたいようなエピソードと言えるだろう…うん、超こえぇ。

そしてその極めつきとも言える話が、陸軍の砲兵官とともに、鉄砲の検査館が植芝道場を訪れた時のこと。

検査官と言うのは出来上がった鉄砲を実際に家でその具合を判断する者たちのことで、その射撃の腕前はオリンピック級、事実塩田剛三が拝見したときに百発百中で驚いたと言う話。

そんな彼らを前に植芝盛平が演舞を行い、

わしには鉄砲は当たらんのや

塩田剛三は確かに植芝盛平から、蒙古で馬賊と戦った時に鉄砲の弾を避けたと聞いていたが、これは相手がいけないと思ったが後の祭り。

検査官はプライドを傷つけられてすっかり怒り心頭、

本当に当たりませんか

ああ、当たらん

じゃあ、試していいですか

けっこうや

その場で誓約書を書き、拇印まで押し、その写しを軍の裁判所のような所へ持っていって確認までしてもらうと言う念の入れようを経て、撃たれて死んでも文句が言えない状態になり、大久保の射撃場へ。

奥さんが大変心配されてやめるように懇願するが、植芝盛平は、いや、大丈夫。あんなもん当たらんよと呑気なもの。

塩田剛三も連れ添った湯川とともに、こりゃ葬式を用意したほうがいいんじゃないかと相談し、しかし実際に射撃場に着くと想像絶する事態が待っていた。

なんとその射撃、1人ではなく、6人がかりと言う話。

25メートル射程のピストルを用いて、先ではその距離に人間の形をした的を置き、その代わりその位置に植芝盛平が立つことになった。

6人が一斉に構える。

25メートルと言うと相当の距離、あんなとこから先生は一体どうするのかと息を呑んで見守る中、3カウント後に、6つの銃口が一斉に火を吹く。

砂埃がもうもうと舞い上がったと思うと、次の瞬間に6人のうちの1人が宙に舞う。

信じがたいことに、植芝盛平は誰もが気づかのうちに後ろに立って、ニコニコと笑っていたと言うのだ。

納得できない様子の検査官がもう一度やらせてくれと申し出、先生はかまわんと涼しい顔。

再び6つの銃口が火を吹くが、今度は端っこの人が投げられ、またもやいつの間にか後ろに立つ植芝盛平。

25メートルの距離を一瞬で移動したのかと、塩田剛三がどうやったのかと尋ねると、

彼らがピストルの引き金を引こうとすると、黄金の玉のような光が飛んでくる。

弾はその後から来るから、避けるのはなんでもない。

それに、六人同時に撃っているつもりでも、一度には出てこない。

必ずバラバラだから、1番先に来る奴のところに行けばいいのだ。

金の玉は、ビューンとすごい音がするんだよ。

音がしたときに走り出す、その時はまるで忍者のように腰をかがめて小走りのような格好。

それで飛び込んでいって、後から弾が来たときにはもう半分ぐらい中に入っていると言う。

植芝盛平は金の玉が来てから弾が届くまですごい時間があると言うが、見ている塩田剛三にとってはまさに一瞬の出来事。

その姿は全く見えず、そんな塩田剛三に植芝盛平は、

わしはこの世に必要だから、植芝は生かしとかにはいかん、と神様のお告げがあった。

私の禊はまだ終わってないから、しなんのや。

神様からもうこの世に必要ないと言われたときに、わしは昇天するんじゃ。

しかしこの後日談として、塩田剛三の知り合いで、猟師にして鉄砲家の名人、山鳥が沢から降りてくる、時速200キロのスピードのその頭を百発百中で狙い撃つと言う、山梨の佐藤貞次郎に、その時のことを話したと言う。

それでもワシの鉄砲は避けられん。

人間の頭なんてこんなにでかい。

わしは山鳥の頭を打つんじゃ。

人間に当たらないわけがない。

そう語り植芝盛平と勝負するために山から降りて、植芝道場へ。

それを受けて、道場の奥に植芝盛平が正座して座り、離れたところから佐藤が猟銃を構える。

塩田剛三が固唾を飲んで見守る中、佐藤の指が今まさに引き金を引こうとした時、

待て、あんたの鉄砲は当たる。

植芝盛平はこう制して、

あんたはわしを打ってやろうなどと言う気持ちがこれっぽっちもない。

最初から当たるつもりでうとうとしている。

そんな人の鉄砲は避けられない。

たいしたものだ。

そう語り、植芝盛平は佐藤に頭を下げたと言う。

それに佐藤は満足して山に帰り、塩田剛三は佐藤の技量、それを察知して勝負を退いた植芝盛平の名人ぶりにすっかり感心したと言う話。

惟神

そんな植芝盛平は塩田剛三が本気で挑む稽古を受け止め、その塩田剛三が道場を離れる年――

昭和16年で、自分の体術の稽古は終わった。

今は惟神の修行に入った、と宣言。

昭和26年には塩田剛三に九段の審査を受けさせ、木剣を持たせた際には1歩も動かさず、体術の際には塩田剛三が隙を探り、行けると飛び出そうとした瞬間によしと止め、

立派なもんじゃ、剣はまだまだたが体術がこれくらいできれば良いじゃろう。

そのかわりもっと剣を修行しなさい。

と九段を授けたと言う。

そんな植芝盛平が、おそらくは昭和14年の頃という話、済寧館で皇族方を相手に演舞をご覧に入れてくれと頼まれたと言う。

その頼みを植芝盛平は、

合気道は一緒にして勝負を決するもので、相手が再びかかってくる事はありえない。

そういうことがあれば、それは虚偽である。

そんな嘘の技は皇族にはお見せすることはできない

と1度は断ったものの、海軍大将たっての頼みと言うことで最終的には引き受けることに。

この時塩田剛三と湯川勉が同行、しかしその時植芝盛平はひどい黄だんで、10日間もの間食事はもっととらず水だけで過ごしており、衰弱して着物を着るにしても歩くにしても同行した2人の方に捕まらなければ動けないほどの状態であったと言う。

植芝盛平は大本教の出口王仁三郎について蒙古へ行ったとき馬賊に捕まり、危うく命を取られるところ、向こうの頭が、バケツいっぱいの塩水を一息に飲み干せたら全員の命を助けてやると言われ、本当に飲み干し、一行は助かったが、それ以来すっかり肝臓を壊してしまっていたと言う。

やっとの思いで向かいの車でつき、歩く時も2人が支えて花道からいよいよ道場に入る前に来て、皇族方の姿が見えた。

そこで急に植芝盛平の眼光はけいけいと輝き、今までとはうってかわって凛然とした姿でささっと道場に入り、丁重なご挨拶の後、演舞に入る。

演武の時間は40分、前半が湯川、後半が塩田剛三。

大地からの湯川は植芝盛平の状態を考えて多少力を加減して向かっていったが、その気力は頂点に達しており、あっという間に湯川の体がすっ飛んで、畳にうずくまって動かなくなった。

塩田剛三が駆け寄ると、なんと湯川の腕は折れていたと言う。

結果的に塩田剛三が40分間受けを務める羽目となり、手加減するどころが命がけで塩田剛三に向かっていき、空中に舞い、畳につくやすぐに起き上がって突進し、押さえつけられ、飛ばされ、激しい気迫の中必死で何とかその相手を務め上げたと言う。

しかしその反動でさしもの塩田剛三も高熱を出して、1週間ぐらい養生を余儀なくされたと言うから凄まじい。

その一件、それにより塩田剛三は、真の武道家は常にこのように、一旦緩急あれば、その前はどれほど体調が悪くても、直ちに自己を最高の状態に置くものだと言うことを戒めにするようになったと言う。

ここにスポーツや競技と異なる武道の厳しい心構えがあり、植芝盛平もつねづね、

私の1番つよい時は息を引き取る時や

と話し、実際に塩田剛三が亡くなる直前に伺った際も、どんなに病状が重くても必ず自分で便所へと行こうとされ、その際にもう臨終も近いと知っていたでし4人が無理をさせないようにと両側から痩せ細っられた腕を抑えて止めようとしても、パッと振り払われたその力で、屈強な弟子四人は後方の庭へと飛ばされてしまい、真の武人の姿を目撃したと語る。

その体は太く、しかし筋骨隆々とした感じではなく、世話をしていた塩田剛三によると、すーっとなめらかで指で押してぱっと離すとくんと戻ってくるような、そんな弾力があったという。

素直な心で相手の目を見れば、相手も全体、力の流れもわかるし、それに対する自分の全体も映ると諭し、稽古に励み、覚えて忘れろ、合気術を身に付ければ、変化に怖いものはない、全てが我が味方であり、対すれば相和す、向こうが剣を振りかぶってきたら、これは我が友なりと言う気持ちが起きなければいかん。

合気即生活と掲げ、歩く姿が武である、目覚めて、活動して、話して、酒を飲んで、床につく、そういった一切の日常的な挙措動作が修行であり、合気道そのものであり、日常生活から逸脱した特別なことではなく、ただ道を歩いているにしろその時の心のあり方、姿勢の保ち方、機を見て敏なる感覚などが、すべて理合の表れであり、またそう努めることが修行であると塩田剛三に伝えていたと言う。

常に自然であれ、天地と一体となって動け。

天地には自然のリズムがあり、それに素直に従っていれば、決して無理の生ずることなくことを成すことができる。

そして相手も生き、自分も生きることができる。

終生そう語り、後に続く塩田剛三を始めとした多くの弟子たち、武道、そして生き方、それらに大きな影響を与え、足跡を残し、惟神の域に達した偉大なる武道家といえるだろう。

最後に植芝盛平は晩年、武の集大成としての言葉をこう残したと言われている。

三千世界

一度に開く梅の花。

これが合気道の極意であり

一度に開く梅の花とは、神が表に現れると言うことだが、合気は体の上に霊をのせると言うことだと――

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