七十一話「前羽の構え」
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目次
本編
息が、口の隙間から漏れただけのような声が出た。
だが、それでも返事は返事だった。
哲侍はそれを、受け取った。
だが、それでも返事は返事だった。
哲侍はそれを、受け取った。
「…………ふぅ」
息を吸い、天井を仰いだ。
それは哲侍自身、覚悟を決めているようだった。
それを合図とするように、哲侍の傍らから出てくる影があった。
ぬぅ、とその男は現れた。
哲侍を岩とするなら、それは壁だった。
巨大で、天井が見えない。
圧倒的な器の広さに満ち満ちていた。
間六彦(あいだ ろくひこ)が、そこにはいた。
天寺は、ド肝を抜かれた。
「――――!」
世界チャンピオンが、そこにはいた。
天寺は過去に、一度聞いたことがあった。
現世界王者の間六彦は、神奈川県支部長橘哲侍の弟子だったことがある、と――この状況を見る限り、その噂は本当のようだった。
憧れの世界チャンピオンの間六彦に会えて、天寺は胸がときめくのを感じた。
だが、次の哲侍の言葉で、天寺の思考は停止した。
「今日から毎日、六彦(ろくひこ)と組み手をやれ」
――――なんだ?
今師範は、なんと言ったのか?
天寺が聞き返すより前に、哲侍はもう一度言った。
「六彦と組み手だ。それ以外、やる必要はない。――いや、やれない、というのが本当だろうな。六彦にはそれほど手加減をする必要がないように伝えてある。そのあとに何かをやる気力は、まず、残っていないだろう」
聞き間違いではなかった。
今橘師範は、自分に、間六彦と――"世界王者と組み手をしろ"と言ったのだ。
天寺は、再び間六彦を見た。
その姿は、以前のように輝いて見えなかった。
その姿は、今の天寺には死神のように写った。
巨大で、目が暗く穿ち、その長い手足は大鎌のように――
構える。
両拳を、ぴったりとこめかみに寄せる。
自分で考えうる限界まで、頭と脇を両腕で覆った。
視界も半分ほどになっている。
今までほとんどの試合をノーガードで戦ってきた天寺にとって、それは初めての経験だった。
死神が、その目の前に佇んでいた。
その死神も構えている。
その長い鈍器のような両腕が、不気味に前に突き出されている。
それに阻まれ顔が遥かに遠のいて、表情すら見て取れない。
前羽(まえばね)の構え。
両掌を真っ直ぐに前に突き出し、それにより制空権を作り出す構え。
だが、実際試合において使われることは、ほぼ、無い。
顔面カバーや脇を締めることすらしないこの構えは、現在の組み手スタイルにおいて間合いを潰されれば終わりという側面を持ち合わせていたからだ。
だが、間六彦はこの構えを使いこなす。
他の人間とはスケールが違うそれは、まるでその体で巨大な大鎌を表しているかのようだった。
心臓が一つ、大きく鳴った。
……怖い。
ストレートに、そう思った。
組み手でここまで露骨にそう思ったのは、初めての経験だった。
勝つ。
そういう思考そのものが、何かの冗談の様にすら思える。
そもそも戦うという発想すら、なかったのだ。
そりゃ勝つなんて思考、浮かぶはずもない。
構える。
何度きつく構えても、穴がありそうで、怖かった。
師範の考えが、わからなかった。
「構えて、」
師範の声が飛んだ。
もう構えているが、気持ちが構えていない。
だめだ。
まだ、覚悟が決まっていない。
もう少し、もう少しでいいから時間を――
「始め!」
首が、千切れ飛んだ。
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