三十一話「負け犬」

2020年4月26日

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 天寺はこの二ヶ月で、5キロほど体重を落としていた。

 完全なオーバーワークだった。
 しかし、負けたくない気持ちが体を無理やり動かしていた。
 そして、一本負けをする。
 またオーバーワークに走る。悪循環だ。

 ――負けたくない。

 その想いは、もはや脅迫観念に近いものだった。
 初めて湧き上がった衝動に抗うことも、コントロールすることも出来ない。
 子供のそれと同じだった。

「……待たせたな。さぁ、続きやるか」

 腹は未だ、激しく収縮を繰り返していた。
 一度完全に効かされてしまった場合、どんなに短くとも30分は休ませる必要がある。

 しかし天寺は、続きを宣言した。

「…………」

 それを纏は、仏像のような静かな表情で見つめていた。
 その様子はどんな事態が起きようとも動かなそうでもあり、今すぐ飛び掛かりそうでもあった。

 ずくん、と天寺の心臓が波打った。

「…………っ」

 それは、紛れもない恐怖の感情だった。

 立ったし、やろうとも言った。
 しかし今この状態で襲われれば、間違いなくやられる。
 それどころか、酷い怪我をする可能性が高い。

 腹をやられれば当然のこと、腹を庇うあまり顔を蹴られる可能性もあるし、足だって疎かになるかもしれない。
 空手において――格闘技においてどこか一箇所を効かされるという事は、それはもう絶望的なハンデになりうる。

 スッ、と纏の体が、前に出た。

「ぅぁ――」

 天寺は、自身が気付かないうちに、その喉から声を漏れ出していた。





 体が、意思とは関係なしに下がる。
 まるで、ブリザートの中で圧倒的な強さと寒さに、押しやられていくように。
 痺れ、震え、どうしようもなくなって――

「やめ」

 静かで野太い声がかかった。
 視線をそちらに向けると、いつの間にか哲侍が二人のすぐ傍にいて、ごつい右の手の平を前に突き出していた。

 それに、纏も動きを止める。
 張り詰めていた緊張感が霧散し、天寺は深い息を吐いた。

 しかし、同時に心臓が早鐘を打つように鳴り出した。
 自分の情けなさに、歯噛みした。

 ――このまま負け犬で生きるぐらいなら、血を吐くまで練習したほうがマシだ!

「司」

 再び天寺が堅く決意した、その時。
 哲侍がこちらを迫力のある瞳で見つめていた。

 それに天寺は気持ちを引き締め、

「お、押忍……なんですか?」

「お前、今体重は何キロだ」

「押忍……五十、二キロです」

「最近、週四日稽古に来ているな。他の日は休んでいるのか?」

「……休んでません」

「なぜ休まない」

 さらに間髪いれず言葉が飛んでくる。

「週に一日は必ず完全休息日を入れろと、いつも言ってるだろう。お前、何年空手をやってる? 今何帯だ?」

 哲侍の言葉には怒気も、呆れた様子もなかった。
 だが、それがむしろ天寺により厳しい印象を与えていた。

 天寺は俯き、

「……押忍。三年で、茶帯です」

 空手には帯制度、というものがある。
 各流派によって違いはあるが、練仁会の場合白帯から始まり、青、黄、緑、茶、最後に黒と続く。

 つまり天寺の茶帯とは紛れも無い上級者であることを表しており、もはや教える側の人間ということを意味していた。

「……司」

 哲侍の口調はそこで、語りかけるようなものに変わる。

「なにも私は、焦るなとは言わん。だがな、体を苛める事と、壊す事は違う。精神論が悪いとは言わん。だがな、体作りは、科学の領域だ。それを無視した結果は、むしろ弱くなる事にしか繋がらん」

 そこで哲侍は一旦言葉を切り、

「司」
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