七十二話「特攻」

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 闇の中を彷徨っていた。

 あの時は汗の海を這いずっていたが、よもや闇の中を彷徨うことになるとは思わなかった。
 どこまで行っても、闇。
 闇を抜けると、また新たな闇が現れた。

 ある意味これは、死と同じではないかと思った。
 闇の中を必死に歩いて、それでも見えるのは闇で、闇を歩いて闇に辿り着き、次の目的地も闇。

 光が、見たかった――

 冷たっ
 不意に、顔の温度が下がるのを感じた。
 どうやら、水を、浴びせられたらしい。

 まだやれと、いうのだろうか……
 その気持ちは、まるで呪いのように気持ちの奥底に沈殿していった。
 深い闇のさらに深いところ。
 闇の中にも浅いところと深いところがあることを、初めて知った。

 思う。
 憎い……

「がああッ!」

 立ち上がった天寺の上段前蹴りが、間六彦の頬を浅く切った。
 血が、赤い線を引いて、空中に描き出される。

 それを躱した間六彦は、体を翻して天寺の顔にガードの上から内回し蹴り――前蹴りと同じ軌道で蹴りだされるが、そこから廻し蹴りと反対の、内側からの孤を描き足の甲を使う蹴りを、叩き込む。
 天寺の両腕が顔に押し付けられ――

 そのまま天寺の体は、ゴミ屑のように宙に舞った。

 頭から床に激突し、二、三度バウンドしてうつ伏せに、動かなくなる。

「…………っ!」

 慎二はそれを見て、顔を逸らした。
 ――見て、いられなかった。

 今まで慎二は、人間同士が作り出す様々な残酷な場面を見てきた。
 慎二自身、内外で多くの喧嘩をしてきた人間だったため、学生の裏の顔、というものをよく知っていた。
 弱者への恐喝。集団によるリンチ。
 口を割らせるための拷問。
 それらを日常的に見てきた慎二は、そういうものには耐性がある方だった。

 しかし、それでもこの光景は見るに耐えうるものではなかった。

 あまりにも、力に差がありすぎる。
 これではまるで、赤子に手を上げる父親ではないか?
 そんなものをまともに見ていられるのは、変人か、頭がイカれた狂人だけだ。

 それでも哲侍は、天寺が膝を立てて体を起こすたびその傍に寄り、訊いていた。

「まだ、やるか?」





 おそらく、一言でも弱音を吐くなり首を振るなりの『否』の意思表示を見せれば、すぐにでもやめさせるつもりなのだろう。

 だが天寺からは、何の返答も反応も、無かった。
 ただ顔を跳ね上げ、野獣のように叫び、間六彦に飛び掛っていった。
 そのたびゴミ屑のように宙を舞い、床に這いつくばる。

 これではあんまりだった。
 見ている慎二の方も限界だった。
 誰かに止めてほしかった。

 だが――

 慎二はそこで、道場の隅の――見学者用のソファーに、目をやった。
 そこには、両手で制服のズボンを掴み、がたがたと震えながら必死の形相で――鋭い目つきでその光景を睨みつけている人物がいた。

 朱鳥だった。

「…………」

 兄妹でよく似た鋭い目つきをさらに険しくして、ひたすらに天寺と間六彦の組み手――死合いを、見つめ続けている。

 その様子は、尋常なものではなかった。
 顔色は真っ青で、妙な汗が顔全体を覆っており、肩も膝も小刻みに震えている。

 それでも朱鳥は一瞬も視線を外すことをせず、稽古が始まってからずっと――一時間、体勢すら変えずそれを凝視し続けていた。

 その肩を、傍で遥が抱いていた。

「…………」

 こちらも尋常ならざる様子だった。
 ハラハラした表情で、眉間にしわを寄せ、息を乱している。
 だがそれでも、妹のために気丈にふるまっているようだった。

 遥は天寺に、頼まれていた。

『オレが死んだら、骨は、お前が、拾ってくれ……』

 最初遥は、それが誇張であると思っていた。
 だが、現在これを見て、遥はそれが誇張でないと知った。

 天寺は、死にに行っていた。

 こんなものを、戦いとは呼ばない。
 特攻だ。ただ、打たれに、蹴られに、怪我をしに、倒されに行っている。
 そこに技術の駆け引きや体力の比べあいや気持ちの応酬などというものはない。
 一方的な責めがあるだけだ。
 こんなもので得るものがあるとは、到底思えない。

 それでも、天寺は続けた。
 特攻し続けた。
 遥もその獣のような姿を見て、覚悟を決めていた。

 天寺の姿を、見続ける。
 それで死んだら、骨は拾ってやる。
 乗りかかった船だ。
 ここまで来たら、最後まで見届ける。
 そのためには、自分も体を、気持ちを張る。

「……はるか」

 いきなり妹に、名を呼ばれた。

「……うん、なに? 朱鳥」

「……わたし」

「うん」

「……ごめん」

「うん、大丈夫……大丈夫だ」

 あとはじっと、二人で天寺の様子を見守った。

 二人もまた、戦っていた。
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