六十七話「右肘」

2020年6月30日

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 夕人の焦燥は、誰の目からも見て取れた。

 天寺は横目で腕時計を確認した。
 試合開始から、既に2分を越えている。
 残り時間はもう、1分を切っていた。

 この時点で技ありを取られるということは、ほとんど決定的に痛かった。
 実力差があれば別だが、接戦の場合技ありを取り返すのは、容易なことではない。

 当然、判定になったら技ありを取っている方に旗が上がる。
 取った方は、極端な話残り時間逃げ回っても勝つことが出来るのだ。
 それを夕人は理解しているのだ。

 再び主審が続行を宣言するが、夕人の構えに今までのような強固さは見られない。
 明らかに、次の手に迷っている。

 今までのような戦い方では勝てない。
 軸となるべく右ミドルは当たらないし、ローや中段膝は堪えられるし、飛び膝は躱される。
 そう考えてると思われる表情のところに、纏が飛び込んだ。

 再び拳の連打が、胸骨に叩き込まれる。
 それは、もうお前はここまでか? と挑み訊いているかのようだった。
 そこには驕りも卑屈さもなく、ただ純粋な闘志があった。

 夕人は、しばらくその拳を受け続けた後。
 フッ、と不敵に笑った。
 それを見た時、天寺の背筋に、

 ぞく、





 と強烈な悪寒が走りぬけた。
 それはまるで、全てを諦めたようにも、また、自分が考えついた何か面白い考えに自ら陶酔しているようにも見えた。

 その厭な笑みに、予感が駆け抜けた。
 咄嗟に何か叫ぼうと口を開いた、その時。

 常に曲げられ、脇におかれていた夕人の右肘が――



 横から、纏のアゴをかち割った。



 がちっ、という鳥肌が立つような不気味な音がして、その口から何か白いものが二、三、マットの上に転がった。

 歯だった。
 砕けていた。

 そのまま纏は横向きに、ゆっくりとうつ伏せに倒れた。
 そして倒れたその顔の周りに、赤い液体が広がっていく。

 血の海が、広がっていく。

 不意に、天寺の頭の中にスプラッタ映画の映像が流れた。
 トラックが暴走して家に突っ込んで、阿鼻叫喚の地獄絵図になるってやつだ。
 その時も歯が飛び、物凄い顔になった被害者が血まみれになり、血の海を広げていた。

 纏は、動かない。
 それこそ、死んだように。
 ぴくりとも、動かなかった。

 その場の誰もが、しばらく動けなかった。
 みんな、何か見えない力に縛られているように、纏の様子を見続けていた。

「――――は」

 それを破ったのは、笑いだった。
 自嘲気味な、乾いた笑い。

「……ははははは」

 夕人だった。
 纏の目の前に立ち、しかしその目は纏を見ておらず、天井を仰ぎ、口の端を引きつらせるような笑みを見せている。

 その姿は、どこか狂気を孕んでいた。

 そこでやっと、気持ちが現実に戻ってきた。
 映画では、ないのだ。
 現実に、纏が、反則で――

「て、纏――――ッ!」

 叫びが、喉から迸り出た。

 は、反則じゃないか!?
 何を貴様は――やっているのか!

 怒りが暴風のように体に渦巻き、試合場に上がろうと片足をマットにかけ――

 纏が立っていた。

 まず驚きが先にあり、様子を窺おうとその顔を見た時、戦慄が、天寺の全身を稲妻のように駆け抜けていった。

 前歯が、鼠にかじられたチーズのように割れていた。
 口の中が、ペンキみたいな真っ赤に染められていた。
 目が、病人のように血走っていた。
 脂汗が、滝のように試合場に零れ落ちていた。

 それが、纏の状態の危険さを雄弁に物語っていた。
 今すぐ治療が必要だと、誰もが息を呑んだ。
 しかし纏は、両手をアゴの高さに上げた。

 構えた。
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