二十九話「現役復帰」

2021年11月7日

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目次

本編

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 その机の上で男は作業を続けていた。
 肉厚な男だ。
 首、胸板、腕、足――その全てが、常人の二倍は太い。

 しかしその太さは脂肪のそれではない。
 筋肉だ。
 それも、縄で縛られたハムのように絞り込まれた、濃密な筋肉。

 そしてその顔もまた、太い。
 あごの肉、首周りともに盛り上がっている。

 だが、それに反して髪の毛はきっちりとまとめられていた。
 ちぐはぐなようにも見えるが、どこか奇妙な調和がそこには合った。

 その男――天寺が通う空手道場の師範にして、煉仁会空手西東京支部の支部長であり、橘纏の父親――橘哲侍は考えていた。

 今年で哲侍も、三十九になる。
 今までは不慣れな道場経営と子育てに追われて、稽古どころではなかった。

 特に最初は大変だった。
 ありとあらゆる手段、手順を、自分ひとりでこなした。

 許可を得たあと、走り回って電柱や掲示板にポスターを貼る。
 デモンストレーションのため、各地のイベントで演舞をこなす。
 数少ないツテやコネを使い、知り合いに声をかける。
 そして人の流れや立地条件を考えて借りる道場の場所を決め、交渉に行く。

 最初、十人と少し集まった。
 それを少しづつ増やしていき、半年後三倍に増えた。

 その頃から合宿も始めていった。
 さらに一年後、百人を超えた。

 その辺りから大会も始めた。
 そして現在、門下生は五百人に達しようとしている。

 そして今日、纏が長崎から戻ってきた。
 実力を計るには、同年代とやらせるのがいい。

 そして天寺司は自分の秘蔵っ子だ。
 都大会王者という肩書きもある分、一番よくわかるだろう。

 その結果は、哲侍が考えた以上だった。

 纏の組み手は、劇的な変化を遂げていた。
 それに、空手に対する向き合い方もだ。
 強さも、以前とは比べ物にならないものがあった。

 司との噛み合い方は、尋常なものではなかった。

 ――あの二人は、強くなる。
 空手に限らず格闘技において、ライバルの存在は大きい。
 あいつに負けたくないから、もっと練習する。
 あいつに勝ちたいから、耐えられる。
 あいつが、あいつが――それは、強力なモチベーションだ。

 そういう存在が及ぼす影響は、練習量、メンタル面において、ダイレクトに反映される。
 哲侍も過去、そういう存在と、死ぬ気の切磋琢磨を繰り返してきた。
 だから、それは実体験としても、よくわかる。

 哲侍も人の親にして、先生と言われる身だ。
 自分の子供、弟子には、強くなってもらいたい。
 出来るなら、チャンピオンになってもらいたい。
 それはこれからの鍛え方次第と言えた。

 そして――
 ぎちり、と硬い音を立てて。
 哲侍の右手が握り込まれる。

 にぃ、と口元に強い笑みが作られる。
 その手が開かれ――不自然に"握り潰された万年筆"が、顔を見せた。

 私も――現役復帰せねばな。





 六月。

 湿気が高まるこの時期の稽古は、蒸し暑さとの戦いでもある。
 一年で一番汗をかくため視界が悪くなり、さらには床も滑る。
 総合して、動きが鈍る。

 蹴りが飛んできた。

 捌く。
 道着が重い。
 その行く手を遮るように、別の蹴り。
 捌き――切れない。
 ガードの上から、腹に貰う。

 これで四発目。
 腹が軋みを上げる。
 退がろうと思って――後ろが既に、壁だった。
 突きで押し付けられ――

 左中段廻し蹴り。

「ぐ、ぐぅ……!」
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