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2020年10月7日

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この記事を書いた人
青貴空羽

小説家にして極真空手家。
更に2年間の英国留学不治の病うつ病になった経験、オタク文化を発信する為ブログTwitterYouTubeを始める。

Twitter:@aokikuunovel

本編

 手の平。

 突っかけようとした纏が最初に目にしたのが、それだった。
 自分に向けて真っ直ぐに突き出された、右の手の平。

 それを一瞬、纏は構えかと思った。

 しかし、それにしては妙だった。
 慎二は右の手の平を前に出していたが、他はまるで棒立ちの状態だったからだ。

 腰も落とさず真っ直ぐ立ち、左手もだらりと下げている。
 天寺のようなノーガードの構えを思ったが、殺気がない。
 どちらというとこれは――

「どうした?」

 その状態で動こうとしない慎二に、主審が問いかけた。
 それに慎二は笑顔で応え、短く答えた。



「棄権します」



 試合場の主審と纏。
 それに、四隅で待機している副審と両陣営のセコンド。
 最後にパイプ席で観戦しているS席の観客。

 ここまでの人間が、一気に凍りついた。

 それより後方の人間は、マイクで集音されてる音声でないと聞き取れないのだ。
 その、試合場の人間とS席の観客までの全員が、思った。

 この男は、今、なんと言ったのか?

 棄権します。
 それの意味することを、この男はわかっているのか?

 その全員の眉がひそめられた時、主審が口を開いた。

「君……その意味が、わかっているのか?」

 しかし慎二はその問いには答えず、右の手の平を下げて、纏に向かって歩いていきながら、淡々と言葉を紡ぎ出した。

「問題は、やつだ。蓮田夕人なわけよ。俺じゃあやつには、勝てない。この前司に負けてるからな。その司が、あのざまだ。そんなやつに、勝てるわけないだろ? 俺も、あんたに託すよ。すげぇパンチと蹴り、持ってるよな」

 そして纏の目前まで迫り、体を折り曲げて耳元に口を寄せ、その小さな肩を叩き、笑顔で言った。

「ま・か・せ・た・ぜ?」

 体を起こし、手の平をひらひらと振りながら、一度も振り返らずそのまま試合場をあとにした。
 あとには呆気に取られた審判団と、セコンド陣。
 S席の観客達と、流れに置いていかれたA席以降の観客達――そして。

 拳をさらに堅く握る纏の姿が、残された。





 試合場をあとにして、選手用の通路を控え室に向かって慎二は歩く。

 その顔は、先ほどと同じように皮肉げに歪められていた。
 俯き加減に、腰の茶色の帯に親指を突っ込みながらフラフラと足を進めていく。
 その行く先に――

 わだかまる人影を見つけた。

 慎二は目を細める。
 暗い通路。
 明かりも何もないそこに、誰かがいる。

 目を凝らして見つめると、それは――大会用のオレンジのスーツを着て、腕組みをする、太い顔とまとめられた髪をした――橘哲侍だった。

「橘センセー……」

 慎二は困惑する。
 哲侍は大会中、本部の審判長席にいるはずなのだ。
 それなのになぜ、今ここにいるのか?

 まるで、自分を待っていたかのように。

「海宮」

 声が掛けられる。
 それに姿勢を正して向き合うと、続きの言葉が降ってきた。

「なぜ棄権した?」

 あ、やっぱり。

 慎二はその問いかけが来たと同時に、いたずらがバレた子供のように破顔した。

「責任とか、勘弁なんスよ」

 未だ難しそうな顔を崩さない哲侍に向かって頭を掻きながら、慎二はその理由を語り出す。

「下馬評覆すのは楽しいけど、優勝とか別に興味ないんで。それに俺、煉仁会空手は好きっスから。だから今回の決勝には出たくない。それにセンセーの息子さんなら、間違いないっス」

「……ふっ」

 その答えに、哲侍は口元を緩ませた。

「お前らしいな」

「センセーだって、色んな目的で空手やっていいって言ってたじゃないスか」

 慎二もさらに悪戯に口元を緩ませた。
 そして、決勝戦が始まる。
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