六十二話「空手の目的」
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目次
本編
手の平。
突っかけようとした纏が最初に目にしたのが、それだった。
自分に向けて真っ直ぐに突き出された、右の手の平。
自分に向けて真っ直ぐに突き出された、右の手の平。
それを一瞬、纏は構えかと思った。
しかし、それにしては妙だった。
慎二は右の手の平を前に出していたが、他はまるで棒立ちの状態だったからだ。
腰も落とさず真っ直ぐ立ち、左手もだらりと下げている。
天寺のようなノーガードの構えを思ったが、殺気がない。
どちらというとこれは――
「どうした?」
その状態で動こうとしない慎二に、主審が問いかけた。
それに慎二は笑顔で応え、短く答えた。
「棄権します」
試合場の主審と纏。
それに、四隅で待機している副審と両陣営のセコンド。
最後にパイプ席で観戦しているS席の観客。
ここまでの人間が、一気に凍りついた。
それより後方の人間は、マイクで集音されてる音声でないと聞き取れないのだ。
その、試合場の人間とS席の観客までの全員が、思った。
この男は、今、なんと言ったのか?
棄権します。
それの意味することを、この男はわかっているのか?
その全員の眉がひそめられた時、主審が口を開いた。
「君……その意味が、わかっているのか?」
しかし慎二はその問いには答えず、右の手の平を下げて、纏に向かって歩いていきながら、淡々と言葉を紡ぎ出した。
「問題は、やつだ。蓮田夕人なわけよ。俺じゃあやつには、勝てない。この前司に負けてるからな。その司が、あのざまだ。そんなやつに、勝てるわけないだろ? 俺も、あんたに託すよ。すげぇパンチと蹴り、持ってるよな」
そして纏の目前まで迫り、体を折り曲げて耳元に口を寄せ、その小さな肩を叩き、笑顔で言った。
「ま・か・せ・た・ぜ?」
体を起こし、手の平をひらひらと振りながら、一度も振り返らずそのまま試合場をあとにした。
あとには呆気に取られた審判団と、セコンド陣。
S席の観客達と、流れに置いていかれたA席以降の観客達――そして。
拳をさらに堅く握る纏の姿が、残された。
試合場をあとにして、選手用の通路を控え室に向かって慎二は歩く。
その顔は、先ほどと同じように皮肉げに歪められていた。
俯き加減に、腰の茶色の帯に親指を突っ込みながらフラフラと足を進めていく。
その行く先に――
わだかまる人影を見つけた。
慎二は目を細める。
暗い通路。
明かりも何もないそこに、誰かがいる。
目を凝らして見つめると、それは――大会用のオレンジのスーツを着て、腕組みをする、太い顔とまとめられた髪をした――橘哲侍だった。
「橘センセー……」
慎二は困惑する。
哲侍は大会中、本部の審判長席にいるはずなのだ。
それなのになぜ、今ここにいるのか?
まるで、自分を待っていたかのように。
「海宮」
声が掛けられる。
それに姿勢を正して向き合うと、続きの言葉が降ってきた。
「なぜ棄権した?」
あ、やっぱり。
慎二はその問いかけが来たと同時に、いたずらがバレた子供のように破顔した。
「責任とか、勘弁なんスよ」
未だ難しそうな顔を崩さない哲侍に向かって頭を掻きながら、慎二はその理由を語り出す。
「下馬評覆すのは楽しいけど、優勝とか別に興味ないんで。それに俺、煉仁会空手は好きっスから。だから今回の決勝には出たくない。それにセンセーの息子さんなら、間違いないっス」
「……ふっ」
その答えに、哲侍は口元を緩ませた。
「お前らしいな」
「センセーだって、色んな目的で空手やっていいって言ってたじゃないスか」
慎二もさらに悪戯に口元を緩ませた。
そして、決勝戦が始まる。
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