二十五話「信じらんねぇ」

2021年11月7日

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目次

本編

 信じられない。

 もはや遥は、勉強をしていなかった。
 ただ目を閉じて、目元を抑えて、声を出して笑っている。

 まるで何か思い出し笑いしているかのような――そんな姿は、それこそ本当に初めて目にするものだった。

 あの事件じゃ、ないと思う。
 だけど他に何が思いあたるかと言ったら、それは何も──

「ハハハ、ハハハ……ほんと、すげぇわ、あれ」

 ほとんど電撃だった。

 何のことを指しているのかと考える必要すらない。
 すごいと聞いて、あれと聞いて、笑う遥を見て、朱鳥は弟がいま、何を考え、どういう想いを抱いて笑っているのかを、一瞬にして悟った。

「遥、あんた……」

 力なくつぶやき、視線を伏せて、そして朱鳥はそっと襖を閉じる。

 そのまま五秒ほど佇み、朱鳥は自室へと戻っていった。
 嫌な感じではない。
 悲しみでもない。
 だけど喜びでもない。
 自身でも判別つかないような感情に苛まれながら、朱鳥は最後に弟のつぶやきを聞いた。

「ほんっ、と…………信じらんねぇな、天寺司……!」





 燦々と照りつける真夏の太陽が、灰色の校舎の時計を強く照らしていた。

 それによって古ぼけた校舎は、まるで新品のように白く染め上げられていた。
 一秒一秒確実に時を刻む針も、日差しを反射し、まばゆく輝いている。

 グラウンドでサッカーに興じる男子、テニスを楽しむ女子、さらには校舎内の教室や廊下、購買部や学食などからはお喋りしている声が響いてくる。
 それはいっしょくたに混じりあい、溶け合い、一つの"校内の音"として形成されていた。

 その中、何の抑揚もなく刻み続ける秒針と、緩やかな風が舞う時計の、その向こう。

 コンクリートパネルが並ぶ屋上だけは、それらの音から隔絶されていた。
 静かで、人がおらず、周りの熱から切り取られた空間。

 そこに、括られた長い後ろ髪を垂らして――天寺司はいた。

 教室8つ分ほどの広さの空間の真ん中に、天寺一人だけが横たわっている。
 手を頭の後ろに回し、両足は真っ直ぐに投げ出し、目をつぶっていた。
 その顔は昏々と眠っているようにも、涼しげに何か考えているようでもあった。

 そこで、天寺は想っていた。

 ――――橘、纏。

 右手を頭の後ろから離し、右のわき腹に添える。

「っ――てぇ……」

 学ランを上に捲り、中のシャツも捲る。
 白いさらしが覗いた。そのさらしをなぞるように、脇腹をさする。

「……左、ミドルか」

 呟き、天寺はあの日の事を思い返す。

 纏との組み手のあと、哲侍に天寺は、ダメージは右のアバラ骨の内二本の、打撲傷だと診断された。
 病院に行くまではないと、さらしをきつく巻くことでしっかりと固定され、一週間の安静を言い渡された。

 今も体を曲げたり捻ったりすると、ずきんと痛む。

「――――強かったなぁ……あいつ」

 強かった。
 半端じゃなく強かった。
 今まで戦った相手とは、そもそも比べることすら出来ないくらい"桁"が違った。

 今までの天寺にとって、空手とはゲームだった。
 必要な時に必要なタイミングで必要な技を繰り出して、相手を倒す。

 そこに精神論や、根性論はない。
 それによって勝ってきたし、それで都大会チャンピオンになった。
 だからその捉え方は正しいと思っていたし、その戦い方に間違いはないと思ってきた。

 だが、纏にそのやり方は通用しなかった。
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