二十五話「信じらんねぇ」
最初から読みたい方はこちらへ! → 初めから読む
___________________
目次
本編
信じられない。
もはや遥は、勉強をしていなかった。
ただ目を閉じて、目元を抑えて、声を出して笑っている。
まるで何か思い出し笑いしているかのような――そんな姿は、それこそ本当に初めて目にするものだった。
ただ目を閉じて、目元を抑えて、声を出して笑っている。
まるで何か思い出し笑いしているかのような――そんな姿は、それこそ本当に初めて目にするものだった。
あの事件じゃ、ないと思う。
だけど他に何が思いあたるかと言ったら、それは何も──
「ハハハ、ハハハ……ほんと、すげぇわ、あれ」
ほとんど電撃だった。
何のことを指しているのかと考える必要すらない。
すごいと聞いて、あれと聞いて、笑う遥を見て、朱鳥は弟がいま、何を考え、どういう想いを抱いて笑っているのかを、一瞬にして悟った。
「遥、あんた……」
力なくつぶやき、視線を伏せて、そして朱鳥はそっと襖を閉じる。
そのまま五秒ほど佇み、朱鳥は自室へと戻っていった。
嫌な感じではない。
悲しみでもない。
だけど喜びでもない。
自身でも判別つかないような感情に苛まれながら、朱鳥は最後に弟のつぶやきを聞いた。
「ほんっ、と…………信じらんねぇな、天寺司……!」
燦々と照りつける真夏の太陽が、灰色の校舎の時計を強く照らしていた。
それによって古ぼけた校舎は、まるで新品のように白く染め上げられていた。
一秒一秒確実に時を刻む針も、日差しを反射し、まばゆく輝いている。
グラウンドでサッカーに興じる男子、テニスを楽しむ女子、さらには校舎内の教室や廊下、購買部や学食などからはお喋りしている声が響いてくる。
それはいっしょくたに混じりあい、溶け合い、一つの"校内の音"として形成されていた。
その中、何の抑揚もなく刻み続ける秒針と、緩やかな風が舞う時計の、その向こう。
コンクリートパネルが並ぶ屋上だけは、それらの音から隔絶されていた。
静かで、人がおらず、周りの熱から切り取られた空間。
そこに、括られた長い後ろ髪を垂らして――天寺司はいた。
教室8つ分ほどの広さの空間の真ん中に、天寺一人だけが横たわっている。
手を頭の後ろに回し、両足は真っ直ぐに投げ出し、目をつぶっていた。
その顔は昏々と眠っているようにも、涼しげに何か考えているようでもあった。
そこで、天寺は想っていた。
――――橘、纏。
右手を頭の後ろから離し、右のわき腹に添える。
「っ――てぇ……」
学ランを上に捲り、中のシャツも捲る。
白いさらしが覗いた。そのさらしをなぞるように、脇腹をさする。
「……左、ミドルか」
呟き、天寺はあの日の事を思い返す。
纏との組み手のあと、哲侍に天寺は、ダメージは右のアバラ骨の内二本の、打撲傷だと診断された。
病院に行くまではないと、さらしをきつく巻くことでしっかりと固定され、一週間の安静を言い渡された。
今も体を曲げたり捻ったりすると、ずきんと痛む。
「――――強かったなぁ……あいつ」
強かった。
半端じゃなく強かった。
今まで戦った相手とは、そもそも比べることすら出来ないくらい"桁"が違った。
今までの天寺にとって、空手とはゲームだった。
必要な時に必要なタイミングで必要な技を繰り出して、相手を倒す。
そこに精神論や、根性論はない。
それによって勝ってきたし、それで都大会チャンピオンになった。
だからその捉え方は正しいと思っていたし、その戦い方に間違いはないと思ってきた。
だが、纏にそのやり方は通用しなかった。
___________________
続きはこちらへ! → 次話へ進む