空手家はリスクしかないのに何故戦うか? 答えは空手をしている人だから
咄嗟に答えられなかった質問
それはTwitterで、問われた言葉でした。
なぜ戦うのですか?
咄嗟には答えられませんでした。
正直戦う事は、辛いことの方が多いです。
痛い、怖い、緊張する、時間を取られる、お金も得られない、共感もされない、尊敬もされはしない——
世間一般的な価値観からすれば、やる意味はどこからも見出せないかもしれません。
じゃあなぜ戦うのか?
戦うと決めたからです。
戦いに、意味は無いのかもしれません。いや厳密に言えばあるでしょう。
相手の痛みを知る、そのことによって優しくなれる。
生死に関わる出来事に立ち向かうことで、生きる意味をもっと強く実感できる。
ですがそれは所詮は、結果論です。
戦うことの最大のポイントは、そこからに逃げないことです。
試合1ヵ月前から、試合と言うものを意識し始めます。
とても嫌な感じです、真綿で首を絞められるような――
試合は、恐怖の塊のようなものです。
怪我をするかもしれない、いやもしかすると大怪我をするかもしれない、一方的にやられて恥をかくかもしれない、観客に蔑まれるかもしれない、師範から失望されるかもしれない、後輩が離れていくかもしれない――
自分の努力は、水泡に帰するかもしれない。
良いイメージなんて沸きようはずがありません。
そんな強い人間など、実際のところほとんどいないでしょう。
1週間前まで来たら、悪夢を見ることすらあります。
やめたくて辞めたくて逃げたくて逃げたくて、しょうがない。
勝ったって、相手を痛めつけるだけ。
それにお互い同じ武道やってる仲間なんだから、勝っても負けてもどっちが上と言うことも、そして興行じゃないんだからお金だってもちろん発生しない。
なんでやらなきゃいけないんだ。
やらなくたって一緒じゃないか。
そこまで追い詰められて、自問自答して、気づくんです。
追い詰められて気づく事実
やってもやらなくたって、武道である以上恥もなにも関係ない。
勝敗によって失うものなど、なにひとつとしてない。
ならば。
より前に進むために、武道という道を歩むために、逃げずに戦うべきだ。
負けたって、恥をかいたって、構わないじゃないか、そんなことは乗り越えたじゃないか?
だったら、立ち向かう。
いやむしろあえて負けを前提で、試合に挑む。
全力を出せなくたっていい。
なんだって。
終われば笑い話、みんなで肩を組んで飯食って酒飲んで大騒ぎだ。
だったら立ち向かおう。
そしたら今よりも前に進める。
空手をもっと楽しめる。
そんな自分をもっと好きになれる。
そして、そんなふうにずっと頑張ってきた、ひたすらやってきた自分に期待をかけている人に、その期待に応えて、笑顔にすることだってできる。
自分に報いることができる。
失敗したって――いや、もっと言えば人生に失敗なんて、ない。
この境地に至ったことこそが、自分が武道をやっていた、その成果だ。
幼い頃から空手家として生きてきて、けれど師匠にお前は空手が好きな空手愛好家だと言われ、自分に才能がないことを嫌と言うほど突き付けられて、けれど凝り性で、創意工夫してどういう風に上手くなっていくかを考えることが大好きで、腐らずにやっていって、その結果少しずつだけど芽が出てきたけれど、大きな結果には結びつかず、だけど選手として第一線でやっていくには結果が何より第一で、そうやって自分に厳しくやっていかないと、自分が保てないと言う日々を過ごして、そして鬱に至るところまでやっていっていました。
本気で空手というか、格闘技に携わっているというか向き合っている人は、大なり小なりそういう考えにとらわれていると思います。
勝負事、2人が対峙して、どちらが勝ち、どちらかが負けると言う性質上、どうしても上下、そういうふうに捉えがちです。
けれどそんなことに、本当は意味などないのです。
仲間たちの意識の変遷
そしてきっかけはその2つでしたが、具体的に違和感を覚えたのは、空手を長く続けていく上での、人々の意識の変遷でした。
主に学生とか、もしくはものすごく活躍してる時は、結構集中するんですよ。俺、空手にかけてますから! 結構そんな類のことを言ったりするんですよ。
けれど高校、もしくは大学を卒業したり、しばらくして勝てない時期が来たりしたら、いつの間にかどうやったら強くなるとか、大会の話題とかでなくなるんですよ。
そして、話題は会社の事とか、家族の事とか、お金の事とか、そんな感じになっていくんです。
空手の後輩がいる。
非常に才能がある。体格にも恵まれ、自分で言うのもなんだが高校の頃から自分と一緒に組み手をしてきたのと、熱心に教えて、そして自分を慕ってくれたことによって、私の空手観と、そして感覚と言うものを共有している。そしてそれを体験するだけの素養を秘めている。
本人にもよく言っているが、全日本をとることも夢ではないほどの逸材で、それはすなわち世界も狙えると言うことにもつながる。
しかし、私は諦めてしまった。
1つは、彼は私から離れてしまった。
露骨に嫌うたとか、袂を分かったとか、そういうわけではない。しかしもともと気分屋なところがある上に、県大会クラスではほとんど敵なしのレベルになったところで、あまり私の話を聞かなくなってしまった。
要は寄り付かなくなってしまった。
そしてもう一つが、私と感覚を共有できなくなってしまった。
端的に言えば、安易なほうに走ってしまう。
これは強くなる過程では、避けられないものの1つである。あえて将棋でたとえさせてもらうが、最初のうちは駒が歩と香車と桂馬位しかないから、よく考えて、なんとか上手に詰ませようと工夫を凝らす。
少し肉体改造等を経て、将棋で言えば持ち駒が飛車角金銀などが増えてきたことで、逆に言えば格下相手だったらごり押しで勝ってしまう。飛車の連打、金の連打で勝ててしまう。だから工夫をしなくなってしまう。
しかしトップレベル同士では、お互いがそれだけの持ち駒を持っている同士だと、当然工夫した方が工夫しない方に 10回やれば10回勝つ。
しかしそれがわからない。県大会レベルならばごり押しで勝てるから、もっと駒を増やせば同じようにごり押しで勝てると考えてしまう。しかし駒を増やすのも限界がある。だからこそ、トップレベルはみな工夫をしている。
しかしそれがわからない。わかるかわからないか、それが二流と一流半、そして一流との違いだ。
視えている世界が違う。
残念だ、と言う思いと、まぁいいか、と言う思いが同居している。
武道は道
以前も述べたが、武道は道だ。歩くことにこそ、意味がある。勝ち負けは過程に過ぎない。勝ったから何か、強くなったから何かある、と言うのはあくまでスポーツだ。そしてエンターテイメントだ。
彼はもっと強くなり、そしてもっと勝ち、チャンピオンになる可能性を持っているが、しかしただそれだけのことだ。別にならなくても、それはそれで彼が幸せになれば、それで問題ないと言える。
私は後輩に想っているのは、そういうことだ。こういう時、昔の含蓄ある言葉が脳裏をよぎる。
人は、馬を水辺に連れて行くことができるが、しかし馬に水を飲ませることはできない。
昔は寂しいときとかありましたね。みんな空手飽きたのかなとか? そんな空手好きじゃないのかなあとか。
だけど、普通はそうなんですよ。成果が出ないと、飽きるんです。そして当たり前の、自分が携わっているものの愚痴だとか、お金とか、そういう当たり前の即物的なものに流れていくものなんですよ。
だから、1回勝ったとか、チャンピオンがどうだとかとは、そんなことにほんとは意味ないんですよ。だって次は勝てるか分からないし、チャンピオンは必ず最後チャンピオンじゃなくなるし、もっともっと極端なこと言いますよ?
何十年もかけてすごい技術を培ってきても。
身長2メートルで体重150キロの200キロのバーベルをブンブン振り回すような20歳前頃スタミナ無尽蔵の若者には、ただパンチとローキックだけで負けちゃうんですよ。
で、じゃあ意味がないからやんなくていいかというとそうじゃなくて。
ただ続ける。ひとに左右されない。自分として、一歩前へ進む。
武道とは、文字通りの意味を自覚した。
怪我や負けや恥をおそれることを克服すること、それが武道
だからなぜ戦うのか? と問われれば、
意味や理由なんかない。
ただ試合があるから。
そして、怪我や負けや恥を恐れることを、克服することこそが武道だ。
私は今、そう信じている。
そしてそう信じることができれば、強くなれる。
たとえ結果が出なくても、そう信じてやっていく自分が大好きだから。
だから私は今、戦っています。
次の瞬間には戦わないかもしれません、私はそこには囚われません。
戦っても戦わなくても、逃げても逃げなくても、自分を軸に据えて考えることができれば、それこそが私が考える武道家だからです。
子供の頃は、ひたすら空手が好きだった。
昔からバトル漫画が大好きで、バトルアニメが大好きで、格闘ゲームが大好きで、そんなのばっかり見てて、実際自分でそんな感じの技を出せる空手が大好きで。
土曜日とか日曜日の朝は10時位から空手の練習を始めて、だけど子供だから効率的だとか、集中してとか、そんなことできるわけもなくて、バラエティーとかアニメだとかそんなの観ながら、だらだらだらだら1日中空手の練習をしてたりした。
自分の師匠でもあり父から、子供の時言われた一言。
お前には才能がない。
逆に、一緒に空手をやっていた弟は、天才と言われていた。実際センスは凄まじいものがあった。比べられることこそなかったが、それは実感していた。
全く気にならなかった。空手が好きだった。そして、稽古そのものが好きだった。正拳中段突きして、前蹴りして、腕立て伏せをして、腹筋をして、サンドバックを叩く。それ全てが大好きだった。
いつか父からの評価が、お前は空手愛好会になった。空手家ではないが、空手を好きでやっている人と言う意味だ多分。
空手家でもなく、空手愛好家でもなく、空手をしている人です
すっ飛ばしてすっ飛ばして、そして数年前から、空手愛好家ではなくなったと自覚した。きっかけとしては、極真空手の創始者である大山倍達が説いた、空手の理念である、点を中心として円を描き線はそれに付随するものなりと言う意味を自分なりにある程度は深い意味で解釈できるようになったことが起因する。
空手家として、自覚ができた。だが、同時に疑問もわいた。
だからなんだ?
空手愛好家と、空手家。確かに習熟度が違うかもしれない。だけど、現実としてその時の自分はうつ病真っ盛りで、まともに稼ぐこともできず、そして体力の低下のせいで2年連続大会に出ることもできなかった。
それからまた2年ほど経って、主として羽生善治の本を、そして動画も、あらゆるものをあさりに漁って、その結果として導き出されたものがある。
私は空手愛好家でも、そして空手家でもなく、空手をしている人だと。
卑屈ではない。空手愛好家といえるほど、子供の時のように情熱を持って稽古を続けているわけではない。
そして、私は空手家ではない。なぜなら、それで稼いでいないから。それに関しては父と見解が一致した。家がつく以上は、それで稼ぎ、生計を立てる必要があるだろう。
じゃあ何なんだ?
空手をしている人。
この言葉には、一点の嘘も含まれていない。私は現在、週4日から5日ほど、1回2時間強ほどの稽古を続けている。そして、日々研究を重ね、稽古内容も改善を続けている。今日より明日、そして明後日、より深く空手を理解出来るように、精進できるよう努めている。
だが、そこに明確な目的があるわけではない。現在私はチャンピオンと言うものにそこまでの価値を見出していない。
ただ道を歩いている。ただ稽古している。空手をしている。
私は、空手をしている人だ。
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