陳老子 空手バカ一代の完敗!香港の実際の攻防、飛び二段蹴りの閃き、本物の風貌に肉体美、遂に明かされる真実を見逃すな!

2024年4月9日

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大山倍達の忘れられぬ相手

幾度目かに及ぶ山ごもり修行、清澄山にこもることを18ヶ月、その結果鍛え上げた体で世界中のあらゆる格闘技者を打ち倒し、ついには三頭の牛殺し、47頭の角折り、熊、ゴリラにまで挑戦したという極真空手の創始者大山倍達。

そんな彼が、自らの空手道修行の道程で、忘れることができない相手がいると語っている。

それこそが本人曰く、中国拳法の大家、香港の陳さんとの立ち会い及び、1週間の指導であるという。

この名前、私実は、その大山倍達をモデルにした漫画である、空手バカ一代を読んでいる方はよくご存知のことだろう。

漫画の中ではヨーロッパに空手の芽を撒き、ロンドンで世界中で大ヒットすることになる空手入門書What is Karate?の出版が決まり、意気揚々としていたところ東洋の心中と言われる国際都市香港に立ち寄り、そこで現在の中国拳法界では最高と言われる達人陳さんにあってから帰ろうと思いついたところ、漫画の中ではその大山倍達曰くちっぽけな老人と言う表現の仕方をされており、陳本人もあまりしぼんだジジイとおう言い回しをしているようだったが、手合わせしたところその底知れぬ静けさ、間合いの見切り、交差法を極限にまで完成したものにより、敗れ、教えによりさらなる武の開眼をすると言う内容となっている。

大山倍達が初めて東南アジアを旅行したのが1957年のことといい、その帰途で香港に立ち寄り、拳法家、特に中国からやってきた達人たちを訪ね歩き、拳法書を出版している版元や、街できっかけをつけた人々の意見を手繰って歩いた末に浮かんできたのが陳だったと言う。

とにかく噂が強い、相手を簡単に倒した話ばかりで、何より信用する気になったのがどんな挑戦者か訪れても対戦を断った事はないと言うその点だったと言う話。

本物だ!

それまでに何人かの中国拳法家というのにぶつかり、その弱さにうんざりしていたと言う大山倍達がようやくにつかんだ本当の拳法家と捉え、挑戦しようと決め、香港島の山手の住宅街に向かい、挨拶すると丁重に室内に案内され、邂逅を果たしたという。

白髪の老人

年齢は60をいくつかこした位。

しかしその要望は漫画で描かれているものとは少々異なり、身長170センチ体重60キロ程度と見ていたと言い、本人曰く身長175センチ体重72キロであったと言う大山倍達と正直極端には見劣りするものでは無いようにも思われ、実際に東洋の武道家としてはがっしりした体躯、いかにもうでっぷししの強そうな感じと表しており、関心独特の眼科の深い、底知れぬ感じの風貌、年齢に比べて締まった体の動きといい、表情といい、並々ならぬ武道の修練がそこから感じ取れる。

多くの中国拳法家と試合をしたが、このような雰囲気を味わった事は、それまでなかったとも語っている。

自己紹介もそこそこにすぐに立ち会いと言う流れになったといい、陳が片足を踏み出し両の手刀を上げて、非常に小さく構え、視線、呼吸、全く読めないほど動かず、そこに大山倍達は間合いを詰めていった。

ジリジリとにじりよっても動かないその様子に、まるで道場の空気溶け込んだような、その存在が消えてしまったような錯覚すら覚えながら、まずは探りの右中段廻し蹴り。

引いて避けられ、追撃の左、今度は受けて流され、その瞬間大山倍達はつんのめるように大きく回転してその場から離脱していたと言う。

態勢の崩れたその瞬間を狙って、心が右の拳をスルッと伸ばしてくるのが分かったからだ。

急いで立ち、しかしすでにその時には心は目の前、顔面に伸びていく裏拳を飛び抜いて外し、左のけりを双手受けではねのける、と同時に陳は1メートルほど飛びすさっていたと言う。

大山倍達はできる!と舌を巻いた。

その飛びのく瞬前、大山倍達は左の膝蹴り、右狐拳を狙っていたからだった。

再びにじりより、右足掛け下段、しかしそれは陳がその足を浮かせたことにより空を切り、それがそのまま右脇腹に伸びてくる。

気づけば音を立てているのは自分だけで、陳はすべるようにそばに来る。

ほとんど仕掛けてこず、力を抜いてすっと立っているだけ。

それが逆に大山倍達に焦りをもたらす。

陳が狙っているのか現代で言うカウンターであり、返し技であり、捌きであり、崩しであることを理解していたからだ。

大山倍達は蹴りを見せ技に突進し、捌かれると同時に右正拳、その拳が包み込まれるように左の手のひらで受けられ、抑えられ、残った右の裏拳が顔面めがけて跳ねあげられた。

飛び二段蹴り

危うく左の小手で受け、しかし右へよろめき、いっそままよと転倒して跳ね起き、間合いを詰めてくる陳に向かって飛び蹴りを放った。

陳の手刀が狐を描き、大山倍達はそれを避けるように体を回転させながら左の蹴りを出さず、そのまま着地。

狙っていたのは飛び二段蹴りだったが、それを中段したのは陳に対する尊敬の余りだったという。

当てれば勝ちになっていたかもしれないが、奇襲戦法でそれを拾っても何もならないし、大山倍達自身とうに技術の差を認めていたと言う話だ。

陳のほうもうっ!と声を立て、その経緯を直感し、近づこうとせず、2歩ほど後退して間を開けた。

1時間、攻めては返されて飛びのきを繰り返し、これが真剣の決戦ならば打たせておいて打ち返すと言う方法を取らざるを得なかっただろうと言う結論にいたり、客間へ戻った大山倍達は

あなたの技の柔軟さと、攻めと受けのつながりに驚きました。

完敗でした。

と礼を述べ、

いやいや、実際に戦いはきっとあなたの勝ちでしょう。

スピードもパワーもたいしたものだ。

それに私は危うく蹴り倒されていたはずですよ。

あれは奇襲戦法です。

基礎的な技では遠く実力が及ばないのを感じました。

と双方認め合い、戦争で陳は姪以外の家族を失ったこと、大山倍達は同世代の仲間を失ったことなど語り、戦争の悲惨さを改めて痛感し、共感し、点を中心にして円を描くと言う中国拳法の極意を授かり、二、三の型、組み手の手解きを受けたという。

陳は12歳の時に修行を始め、3年間は兄弟子たちの練習の看取り稽古、それから3年間歩き方、足の運び方を学び、二、三の型と手の握り方を習い、組み手の練習に入ったのが実に6年目だと言う。

陳は内家拳の流れだというが流派にこだわりはなく、

10年はみっちり修行しなければ、拳法を学んだなどとは言えないはずです。

いや、さらに30年修行しなければ、この道を極めだとは言えません。

この辺が後大山倍達が掲げる千日をもって初心とし、万日を持って極めとす、に繋がるところがあるのかもしれない。

その手刀は板10枚を、実際のところ大会の試し割りでも手刀で10枚を割ったと言う事は規格の違いなどもあるかもしれないがほとんど聞いたことがなく、それも通常のような派手に打ち砕くわけではなく、スッと下ろすだけでほとんど音も立てずそっくり割り、大釜に沸かせたぐらぐらと煮えたぎる湯に五秒間も貫手を差し入れ、やや赤くこそなっているが全く問題なしと言う神業を見せつけ、あの大山倍達をして驚愕させたと言う。

正しく武の根幹に到達し、国内外を見回してもほとんど見られないレベルの大山倍達との対等な打ち合いを演じ、その空手の完成に大いなる影響与えた、歴史的な武道が、武術家と言えるだろう。

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