“秋田の武人”佐藤俊和 地方初全日本王者 市会議員でウィリーと戦い添野義二、佐藤勝昭、東孝、二宮城光、ハワードコリンズ、富樫宜資を破った男!

2024年4月9日

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秋田の武人

私は彼こそが、極真の黎明期に体を張ってその牙城を守った、武人そのものであると考えたい。

彼が極真の表舞台でその壮絶な活躍を見せたのが、第4回全日本空手道選手権大会。

そこで佐藤俊和は、前年の全日本大会で大山泰彦、大石代悟を前蹴り、中段回し蹴りで1本勝ちして優勝を成し遂げた、その後第1回世界大会で世界王者に輝く、佐藤勝昭と対戦し、再延長3対1で勝利したというからまさに驚嘆すべきことと言えるだろう。

続いてBブロックの決勝で城西の虎と呼ばれていた、第1回及び第2回全日本空手道選手権大会で、準優勝、そして3位に輝いている、添野義二と対戦。

2年ぶりの出場となる、山崎照朝、及川宏と共にキックボクシングでもデビューしており、極真三羽烏と謳われていた、まさに極真を代表する優勝候補を相手に、佐藤俊和は右中段前蹴りで技ありを奪い、その後エキサイトして顔面にパンチを入れられたりしたが1歩も引かずに真っ向勝負を繰り広げ、打撃戦を展開し、さらに右前蹴りを腹に叩き込み、なんと1本勝ちを奪ったと言う。

身長178センチ、85キロ、常に鬼のような形相で必死の想いで戦い、無駄な肉は全くない鋼鉄のような体は、仁王像と表して間違ってはいないかもしれない。

こうして堂々たる全日本3位に入賞した佐藤俊和は、続く第5回全日本大会では1回戦にて、第9回全日本大会で優勝、第一回世界大会6位、第二回世界大会4位を果たす、"人間機関車"東孝に勝利し、続いて大東流合気柔術や、琉球古武術、沖縄剛柔流も修め、翌年の全日本大会で4位に入る、西田幸夫と対戦。

佐藤俊和は開始直後から、得意の右の前蹴り、そして左の上段回し蹴りの連発、引き込んでの膝蹴りでどんどん攻めていく。

西田幸雄も左の前蹴りで止めようとするが、その勢いを抑えらずに、そのまま勝利したようだ。

そして準々決勝戦にてあの空手バカ一代でも有名な、100日間もの山ごもりをして出場した、他流派の富樫宜資と対決。

「空手バカ一代」富樫宜資との死闘

富樫は3回戦にて本部指導員の岸信行と対戦し、そのバックスピンチョップによってダメージを与えて、判定勝ちをもぎ取っている。

この技の有用性が、現在では疑問視されることではあるが、そんな外敵を相手に、佐藤俊和の闘志が爆発する結果となった。

私が考える彼の功績として大きいもの、それはまさに外敵との戦いだった。

極真として、空手母国日本として、これ以上の侵略を許してはならない、そんな時に彼は、その身を呈して、その命で、魂で、その侵略を防いでいてきた。

そのまずは象徴とも言える戦い、延長戦に、富樫が廻し蹴り・後ろ回し蹴り、廻し蹴り・バックスピンチョップとくるくると回りながら攻撃を仕掛ける中、佐藤俊和は中間距離から前蹴り、上段回し蹴り、下段回し蹴りと足を思いっきり伸ばして先制攻撃を仕掛け、相手に回る隙を与えず、そして逆に一瞬の隙をついて右の下段からの左の上段回し蹴りを鮮やかに決める。

終盤にはド突き合いも見られ、最終的には受け、技の多彩さ、間合いの巧みさで、佐藤俊和が3対0で勝利を掴み、極真の牙城を守った形となった。

準決勝ではあの"日大の花"山崎照朝とも対戦し、その鋼鉄の脛受けで敗退したが、そこまでの激闘、功績を考えれば、それも含めて彼の勲章と考えることができるかもしれない。

そして第6回全日本大会でも5位に入賞し、迎えた第一回全世界空手道選手権大会。

ウルグアイのRボシーノの選手を相手にローキックからの膝蹴りで、瞬殺の1本勝ちを決める。

そして準々決勝進出をかけて、イギリスの"円熟"ハワード・コリンズとの戦いを迎える。

足を痛めていたとは言えいちどは負けている相手だが、極真日本がその栄えある第1回世界大会でその強さを誇示するために、決して負けられない戦い。

特にハワードコリンズは全日本大会でも準優勝に輝いており、チャールズ・マーチンと並んで、海外勢最強の脅威の1人と言って間違いなかった。

そんな相手に佐藤俊和は右のローキックを中心にどんどん前に出ていき、繰り返される延長の末、最後は得意とする左の前蹴りの連発で押し込み、佐藤俊和はリベンジを果たすとともに、日本の王座を守ることに大いに貢献した。

準々決勝では再び佐藤勝昭と対戦したと言うことだが、肘打ちが佐藤俊和の左のこめかみに入ってしまい、試合が中段し、1試合挟んでの再試合と言うことだったが、その傷が深かったのだろうか、佐藤俊和の棄権と言う形でその世界大会での戦いを終えたと言う。

地方者初の全日本戴冠へ

そして迎えた、第8回全日本空手道選手権大会。

優勝候補としてベスト8まで勝ち上がり、"埼玉の俊英"野口敏郎との一戦。 野口は若干18歳ながらも身長180cm体重74kgの当時としては重量級選手だが、経験とパワーで勝る佐藤が判定勝ちし、準決勝不戦勝で決勝まで上り詰め、戦う相手は前年の第1回世界大会にて3位に着いている、芦原英幸のサバキを受け継ぐ者、二宮城光。

絶対的な強者として知られ、映画史上最強の空手Part2でも主役級の扱いだったが、それを相手に佐藤俊和は、どっしり構え、体力差を生かした飛び込んでの膝蹴りでどんどん前に出ていく。

そして左右のローキックで機動力を奪い、そこからの正拳突きの連打でダメージを蓄積させる。

激しい組手スタイルで誤解されがちのように思われるが、佐藤俊和のその戦いは、非常に理詰めで、ハイレベルなものだ。

そして最後は下突きの連打で、あの二宮城光を棒立ちに近い状態にまで追い込み、悲願の初優勝を勝ち取った。

極真全日本大会史上、本部以外の人間がチャンピオンの座についたのは、この佐藤俊和が初めてのことだった。

その時のことを佐藤俊和は、

「今度は俺の番だ、と言う意気込みで試合に挑んだ。あらゆる体力トレーニングを積んだし、精神面でも、海岸で座禅を組んで雑念を消して、波の音だけしか聞こえない状態まで修練した」

と語っており、その意気込みが、彼の生き様が見てとれるようだった。

その判定が降った瞬間、佐藤俊和は周りの目もはばからずに身を翻し、両手で顔を覆って、大粒の涙をこぼした。

彼のそれまでの修行、苦労、思い、それが象徴される、胸に響くワンシーンだと言える。

その後彼は、優勝者であるにもかかわらず、二宮城光の肩を借りて、マットおりたと言う話だ。

その後佐藤俊和は大会に出ることなく、1979年に秋田県本荘市の市議会議員に当選。

戦い以外でのその才覚、人望をも発揮した形となったが、しかしそこで大山倍達に第二回世界大会の代表選手としての推薦枠での出場を打診され、男気溢れる彼はそれを承諾。

当然試合勘は失われているし、十分な稽古も詰めない中、彼は大山倍達のため、極真日本のために奮闘し、5回戦まで進出。

そこで激突したのが、あの"熊殺し"ウィリー・ウィリアムス。

ウィリーは、そこまで圧倒的なまでの強さだった。

初戦を膝蹴りからの上段回し蹴りで相手を吹き飛ばしての1本勝ち。

次の試合をいきなり右の足払いからの、フェイントを入れての左の上段回し蹴りでの瞬殺の1本勝ち。

そして4回戦はくっついてくる相手をなんとその太ももに膝蹴りを入れての、下段膝蹴りという珍しい決まり手での一本勝ち。

恐ろしいまでの強敵、身長体重ともに20センチ、20キロの差、さらには3年にも及ぶブランク、31歳と言う年齢、そして極真日本としての勝たなければいけないプレッシャー、彼の胸にのしかかるものが凄まじいものがあったと容易に想像できる。

ウィリーウィリアムスとの激突

先に仕掛けたのは佐藤だった。

左のローキックで相手の右に回りながらどんどん攻勢を仕掛けていく。

しかしウィリーも同じように左のローキックで佐藤の右に回り、スピードの差、リーチの差でアドバンテージを取られそうになる。

そこで佐藤俊和の秘策、前蹴りが炸裂する。

彼はこの前蹴りが、他のものが使わないような攻防一体の鍵として、この試合の要にしようと考えていたようだ。

廻し蹴り・廻し蹴り・廻し蹴り、ウィリーの連打に、佐藤俊和の右足が悲鳴をあげる。

しかし佐藤俊和も前に出て、左の前蹴りでその巨体を止める。

その眼は絶対負けないと言う悲壮な覚悟に彩られていた。

そしてその前蹴りが効果を発揮して、間合いを保ち、そこからの右のローキックが、ややウィリーウィリアムスに効果的に作用したように思われた。

いい流れが来始めたかもしれないところで、ウィリーが突然佐藤俊和の両袖を持っての膝蹴り、なんとか首を振って交わしたが、左上段廻し蹴りで釘付けにされて、今度はしっかりと首をがっちりとロックされて、抜け出せずに、ものすごいパワーで引き込まれて、ボディーからの顔面への膝蹴りが直撃。

佐藤俊和はマットに倒れた。

しかしその後の判定で、ウィリーウィリアムスのつかみが反則とみなされ、試合は延長戦へ。

だが実際のところその判定では、ウィリーは最初のつかみの時点で注意1をとられており、さらに再びのダウンの時は減点1となり、最初の判定で3対0で佐藤俊和の勝利となっていたと言う。

そこで最高審判長の大山倍達より物言いが付き、佐藤にも決め手が無いとして延長を命じたらしい。

会場は沸いたというが、その時の彼の胸中はどのようなものだっただろうか。

延長でも佐藤俊和は右のローキックで活路を見出そうとするが、ウィリーの廻し蹴り・後ろ回し蹴りからの、正面衝突したような正拳突きがボディーに直撃。

外した壱発は、天空にまで届きそうな勢いだった。

さらに追い込まれ、中段回し蹴り二連発で釘付けにされて、そこからまさかの正拳中段突き10連発。

佐藤俊和の肋骨は、なんと4本も折れていたと言う。

ありえない、信じられない、そんな状態だったのならば途中で叫んで、吹っ飛んで、ひっくり返って、のたうちまわっても全くおかしくない、何しろそれは10連打だったのだから。

それ以上の致命傷を防ぐため、生存本能から考えてもまったく当然の反応だろう。

しかし佐藤俊和は倒れず、技ありが宣告された後も両膝に手をついて、ダウンを拒否して、最後まで、その最後まで、全日本王者の誇りと、極真日本を守るための、その意地と生き様を、その場にいる全員に見せつけた。

マットを降りてマスコミや関係者が寄って来るなか、それを戦友である佐藤勝昭こういさめたと言う。

「責めないでやってください。 現役を引退していた男なんです。 ここまでやった精神力を褒めてやってください。 四年前ならウィリーなんかに負けなかった。 でも気力はあるが体力がついていかない」

その後ウィリーウィリアムズは控え室に訪れ、この世界大会前にともに練習した中であると言うことで、謝りながら号泣したと言う話もある。

そして佐藤俊和は引退し、事業に精を出す傍ら、秋田県本庄市議会議員を七期務めあげたと言う。

添野義二、佐藤勝昭、ハワードコリンズ、富樫宜資、東孝、二宮城光ら極真史に燦然と輝く強豪を打ち破り、他流派、海外の脅威を跳ね返し、地方の選手として初の全日本王者を戴冠し、現役市会議員でありながら世界大会に出場し、ブランクを知りながらも極真史上最強の男の1人である熊殺しウィリーウィリアムスと戦い、最後までその矜持を守り抜いた、まさしく秋田の武人、佐藤俊和。

彼の成し遂げたいくつもの功績、偉業、そしてその生き様が、いつまでも多くの人々の胸に心に記憶に、残ることを願って止まない。

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