“日大の花”山崎照朝 範馬刃牙、力石徹のモデル 前羽の構えからハイキックでムエタイランカーを秒殺!
日大の花
山崎照朝 鬼より怖い
天下無敵の前羽の構え
この、彼が現役当時に実際に言われ称えられていたフレーズを、インターネット上で見る事は無い。
空手バカ一代のイメージに引きずられて、実際に彼の強さが、その形容詞が、過小評価されているように思える。
私は彼についてのことを調べるにつれて、さらに深く知るにつれて、彼のことを語るのが正直、引け腰になってきていた。
あまりにも空手家、武道家然としたそのあり方に、私ごときが語っていいのかと言う気にさえなっていた。
私はそれまで、空手家として尊敬している人間として、塚越孝行、そしてブルガリアのヴァレリーディミトロフを心に挙げていた。
そして山崎照朝は、まさにそこに立ち並ぶ人格者でもあった。
山崎照朝は、その強さについて気になったきっかけは、第5回全日本空手道選手権大会だった。
結果的に準優勝となったのだが、気になったのは、あまりにも圧倒的だった、その試合内容だった。
まさに他を寄せ付けない。
そもそもほとんど試合にすらなってもいない。
まさしく底知れないと言う表現がぴったりと合っているような、だがしかし決勝で大変な僅差とは言え負けたのは事実で、実際のところどうなのか、評価が定まらないのが実際だった。
しかしその後、ある衝撃の事実を知ることになった。
あの第5回全日本大会、凄まじいまでの試合内容を見せつけた、その当時、山崎照朝ほとんどまともな稽古らしい稽古を行っていなかったと言う話だ。
息をのんだ、そんなことありえるのか?
そこでふと、気になっていたことがあった。
山崎照朝は、キックボクサーとしてデビューしており、そこでムエタイと戦っている。
近年私は個人的にムエタイの研究を進めており、その実態をある程度把握していて、そこに挑んだ日本人たちの状況もそれなりには知っていたので、山崎照朝のその戦いの軌跡を、その価値をそれなりには判断できるかもしれない立ち位置にあった。
そこでさらに驚愕の事実を知った。
練習の虫・藤平昭雄
私は極真史上最強に次ぐ者たちとして、大山道場の強豪中の強豪、最強に近いものとして、藤平昭雄を取り扱うかどうかを考えていた。
藤平昭雄は稽古の虫として知られて、1日10時間以上の稽古をこなし、当時本部に衝撃を与えたカレンバッハが来日した際、本部の黒帯連中が軒並み吹き飛ばされ、第5回全日本大会で優勝し、第一回世界大会で準優勝した盧山初男すら、その空手の威力に疑問を持って1戦を引くほどの敗北を記した相手である身長187センチ体重110キロを誇るヤン・カレンバッハに――
わずか身長155センチ体重53キロの体格で唯一真っ向から立ち向かい、脇腹に蹴りを打たせて、受け止め、そこで命を賭けた正拳突きを敢行しようとしたところで、カレンバッハが投げ飛ばして回避すると言う繰り返しを演じ、ついには引き分けに持っていったと言う、まさしく伝説的な空手家だ。
しかしそんな彼をして、キックボクシング、本場タイでのムエタイのランカーとの戦いでは、同体重のチャンピオンとの戦いでは、確かに後世に広く評価される名勝負、激闘を演じをしたものの、勝利することは叶わなかったと言う。
確かにムエタイの本場の何か、チャンピオンとなれば、それは別次元のレベル、テクニックを持っているのは間違いないが、それが果たして体重その壁を乗り越えて、すでに述べたウィリーウィリアムス、アデミールダコスタ、塚本徳臣、チャールズマーチン、塚越孝行、そしてそれに次ぐ者としてのミッシェルウェーデル、さらにこの後紹介する2人を倒し得るかと言うと、さすがに疑問符がつくかと考える。
これは決して藤平昭雄の価値を落とすものではなく、単純に数値として、そういうふうに考えた場合の話なので、別に捉えていただけるとありがたい。
そして私は、山崎照朝に、またも衝撃の事実を突きつけられることになる。
大人気を博したテレビでのキック戦
山崎照朝は、そのキックボクシングのデビュー戦を、わずか2ヶ月、それも極真空手一筋であり、他の格闘技は意地でも習わないと言うその発想からほとんど空手のスタイルのまま挑み、しかも相手はムエタイのライト級6位、.それを相手にわずか2ラウンド45秒でK.O勝ちしたと言うのだ。
そして次の戦いで、そもそもがキックボクシングの舞台に上がるきっかけとなった、キックの鬼として国民的なヒーローとなっていた沢村忠の30連勝をストップしたと言う、あの全世界のキックボクシング人口の中のまさに聖地とも言えるルンピニースタジアムでのランカーであるカンナンパイソントーンとの戦いで――
山崎照朝は前羽の構えで待ち構え、右ローキックを脛受けして、左右の前蹴りを鳩尾にブチ込み、右ストレートでトドメを刺し、1ラウンド1分33秒でK.Oをしたと言う。
世界中のキックボクサーが、私がムエタイ史上最強の1人として挙げている、日本が生んだムエタイを極めし体現者である吉成名高ですら、本場のムエタイ選手はKOなどできることなどではないのに、ムエタイの練習もキックボクシングの練習もせずに、1ラウンド1分33秒など、神業と言う言葉を持ってすら生ぬるい!
さらに山崎照朝の凄いところは、そこでムエタイの技術の素晴らしさを素直に認め、勝利したカンナンパイに教えをこい、ムエタイのその礼儀正しさに敬意を示し、すぐに考えを変えて日本大学にキックボクシング同好会を結成し、3年後には全日本学生キックボクシング連盟を発足させたことなどからも見てとれるだろう。
その後テレビ局の意向でカンナンパイとの再戦が組まれたが、プロ意識のなさ、いちど決着がつき、さらにはいろいろ教わり友達になっていた相手と言うことで結果を判定まで逃し、判定負けし、その時の極真会館の考え方で判定負けならばよしとすることで、その落としどころを見るところも、山崎照朝の人柄を表していると言える。
伝説的な全日本大会の活躍
その後第一回全日本大会を圧倒的な強さで優勝、第二回大会は開始20秒で相手選手のルールに特化した戦法により足払いにて敗れているが、個人的にはこれは彼の強さを否定する要素にはなり得ないと考えている。
その後引退し勤め人となったが、大山倍達の命令により第4回全日本大会に2年ぶりに出場し、変わらず圧倒的な強さを見せつけるが、実質的な準決勝戦であの円熟ハワードコリンズと戦い、凄まじい強さで責め立て、何度も場外に叩き出し、バックブリーカーでぶん殴るまでしていたが、おそらくは山崎照朝独特の、前羽の構えから、円心の構え、そして弓張りの構えと変幻自在に構えを変える途中の、その弓張りの時に瞬間的に顔面カバーが大きく開くその時を狙われたのだろう、ハイキックを貰い、技ありを取られ、そして敗れているが、勤め人、2年のブランク、不十分な稽古、ハワードコリンズの研究と言う点から、これも彼の評価を下げる要因には全くならないと思っている。
実際にハワードコリンズも、万に1つの奇跡に近い勝ち方、偶発的なもの、決して実力ではないと回顧している。
そして最後の戦いとなった第5回全日本空手道選手権大会では、2回戦でムエタイのチャラカンボと戦い、ムエタイでも本場タイでの元バンタム級チャンピオンであり、さらには国際式ボクシングでも東洋バンタム級1位までランクインされ世界フライ級、バンタム級2階級制覇をしたファイティング原田や、世界フライ級チャンピオン海老原敬之と互角の戦いをしたと言う触れ込みの相手に、まさかの膝蹴り2連発からの、左上段廻し蹴り2連発をぶち当てての1本勝ち!
しかも相手はそのあまりの破壊力にペコペコと頭を下げたと言う。
この価値が、知った当初わからなかった。
しかし今ならば理解できる。
ムエタイの選手は、ハイキックを貰わない。
長年ムエタイを見ているが、ハイキックでのKOと言うのはほとんど見たことがない。
そもそもがムエタイが完全なる超反応とも言える防御を身に付けて戦いに赴いているので、KOどころかダウンやダメージすら、そういうふうにもらわないように訓練されている。
その中でもKOが生まれるときは、そのほとんどが肘打ちによるものだ。
後はパンチだとか、時折ローキックもあるが、ハイキックでK.Oどころか命中させることすら至難の業。
それは漫画ではあるが空手小公子小日向海流と言うその中でも述べられている。
そのムエタイの本場の元バンタム級チャンピオンと言う触れ込みの相手に、さらにはボクシングでも東洋チャンピオンになり顔面攻撃には非常に耐性があるはずの相手に、ハイキック2連続で当ててのK.O。
規格外、あまりにも、あまりにも規格外すぎる。
この人があまりにも涼しい顔で当たり前みたいにやるもんだから、周りがその凄さに気づかないというのもあるだろう。
そして準々決勝戦では3回戦を左上段廻し蹴りで1本勝ちした芦原英幸門下の松友選手と戦い、しかし松友はその変幻自在の構えと、そのあまりにも硬い骨による肘、そして膝に受けにより自らの体を痛めてしまい攻めることができず、そして肩やそういったところから生じる上段回し蹴りのフェイントや、その圧力にあらがうことができずに、一方的に下がり、何度も場外に出て、全く試合にならずにそのままその戦いを終えてしまった。
全日本大会だぞ?
全日本大会の準々決勝、日本で最も強い8人
による戦いなんだぞこれが?
そして恐るべきは準決勝。
相手は、後の第8回全日本大会に於いて、あの中村誠、三瓶啓二による三誠時代を作り出した2人を退け、そして第一回世界大会において3位に輝く二宮城光を破って優勝を果たす、佐藤俊和。
まさに絶対的な強者、優勝候補の一角、それを相手にして、山崎照朝は全く寄せ付けず、佐藤の攻撃を弾き飛ばして、右ローキックからの対角線上の攻撃により押し込み、そして佐藤俊和がローキックを放ってきたそれを、通常の通りに左の脛受けをした、その直後。
佐藤俊和が腰を落とし、抑え、立ち上がろうとしたが、しかし立ち上がることが叶わず、そのまま審判が入り、山崎照朝もいたわり、ドクターが呼ばれ、そのまま試合は山崎照朝の1本勝ちとなる。
何度も言うが、全日本大会で、準決勝で、さらに相手は後の全日本王者で、それを相手に、脛受けで、受けで、1本勝ちしてしまった。
その後決勝では盧山初雄と戦い、しかし山崎照朝の鉄壁の構えで盧山初雄が得意のローキック、三日月蹴りも通用せず、唯一天地の構えで開くその脇腹を狙っての下突きでポイントを取り、判定4対1で山崎照朝は惜敗したが、正直ルール的なもの、そして何度も言うがブランク、稽古不足、そこの問題に尽きると考えている。
さらにその後山崎照朝は本部道場の大山茂との会談において、ニヤリと笑い、気合負けでした、ダメージはありません、と語ったと言う。
空手バカ一代でのこの1コマは、完全に前後の整合性を取ってのことだったのだろう。
そんな彼が唯一全身全霊で向かった試合があると言う。
唯の一度の全身全霊
それが第一回全日本大会直後に、極真の黎明期を共に過ごした添野義二からの、地元である所沢での興行での出場要請により、実現した。
あの国民的スターになる沢村忠を、19度のダウンにより葬ったと言う、サマンソーアディソンとの戦いだった。
山崎照朝はその試合を会場の東京渋谷リキパレスで観戦しており、その鮮烈な光景を覚えていた。
山崎照朝は極真王者となりわずか13日後。
対するサマンはルンピニースタジアムフェザー級8位という触れ込み。
知っている方ならご存知だと思うが、基本的に小柄なタイ人の中にあっては、そのフェザー級を含むの軽量級こそが神の階級と呼ばれ、他国においては侵されることがない、まさに不可侵の領域と言えた。
サマンの気性は荒く、そして殺気は凄まじく、目黒の宿泊先から飲み屋に行った際に暴力団3人と喧嘩となり、包丁持ち出した相手にその手を蹴ってやっつけたと言う武勇伝まで上がっている。
その様相はまさに極真VSムエタイの、果たし合いの様相を帯びていた。
開始直後のサマンのラッシュを、山崎照朝は天下無敵の前羽の構えで応じて、動かず、微動だにせず、ゆっくりと左に回り、そして-
その時の様子を、本人が語っている。
私の個人的な思惑などと言う無粋な事はせずに、それを純粋に引用させてもらうことにする。
きれいな、左の廻し蹴りで倒した。
これまでで1番、きれいに倒したと思う。
パンチで倒したと書いてある本もあるけど、あれは得意中の得意の、左の、廻し蹴りだよ。
それは東京日暮里の四乗半のアパートの部屋で、4キロの鉄下駄を履き、裸電球から垂れるスイッチの紐を蹴り上げ、素早く住人に聞こえないように全く音を立てずに下ろした、その動きそのものだったと言う。
1ラウンド2分6秒、K.O勝ち。
試合後、彼は一言。
空手はキックに絶対負けない。
彼について語りたい事は尽きない。
彼の人格、その空手理論、逸話、慕う後輩たち、それこそ無尽蔵に湧いてくる。
しかし現時点でも凄まじいほどの長さになっているので、今回は彼の強さ、それも端的なところのみにピックアップさせていただいた。
わずか体重62キロ、それで勝ち上がるために積み上げたもの、生み出したもの、その稽古、それを考えると、私は夜も眠れなくなる心地になる。
極真史上最強になり得る事は12分に考えられるが、やはりどこまでいってもその体重だけが気に掛かり、そしてあまりにもその全盛期が短すぎて、検証が難しいこと、あまりに強すぎて相手がおらず、近接戦やパンチを磨く必要がなかったと言うことが逆説的になり、形としては判断が難しいのだが一応極真カラテ史上最強に次ぐものと言う形にさせてもらう。
折りがあれば、また語らせていただきたい。
それだけの器が、魅力が、武道性が、彼には秘められているように感じる。
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