“三日月蹴り”盧山初雄 カレンバッハと闘い嵐五郎でキック、澤井健一・中村日出夫に学び、第5回全日本大会で二宮城光、佐藤勝昭を破り山崎照朝と激突!

2024年1月6日

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大山道場に入門

極真の歴史の中でも大山道場時代、極真空手時代、その両方でそして長きにわたり組織に在籍しその存在感を示し、支え続け、広く知れ渡ることになる武道家である。

1番強い空手道場でという動機で大山道場の門を叩き、大山倍達の仁王のような迫力、優しい瞳で最後までやらなくてはだめだといわれ、その言葉を頼りに安田英治、黒崎健時、石橋雅史らが師範代を務め、大山茂、大山泰彦、郷田勇三、加藤重夫、岡田博文、渡辺一久、藤平昭雄、小沢一郎、中村忠らが指導する中、肋骨などをおられながらも1年間皆勤も成し遂げ、4年目の19歳には黒帯、二段を取得。

それに伴い当初160センチ55キロ、45キロのバーベルしか上がらなかった体格も170センチ65キロまで成長し、組織自体も大山道場から極真会館へと変わり、黒崎健時、中村忠、藤平昭雄がタイへ渡り空手VSムエタイ、3対3マッチで勝利を掴み取るなど激動の中、指導員の国外赴任、さらには強豪外国人の来日が多く行われていたという。

その頃の盧山初雄は心身ともに充実し、もしかしたら俺が1番つよいんじゃないかというほどの自負を誇っていたが、そんな中オランダからやってきたヤン・カレンバッハから

「センパイ、フリーファイティング(組手)オネガイシマス」

その誘いを受け、あ、きたなという戦慄を覚え、そのカレンバッハは身長187センチ、体重105キロと大きくなったとはいえ盧山初雄とは比べ物にならないほどの巨漢であり、空手歴も長く三段を保持しており、さらには柔道まで三段四段の腕前。

まさしく恐るべき実力を保持している事は間違いなかった。

ヤン・カレンバッハに澤井健一と中村日出夫

事実として2階の道場で手合わせを行い、しかし得意技である右上段回し蹴りも金的蹴りも通じず、何度も道場の壁まで追いやられ、軽い前足の蹴りでのけぞらされ、左右の正拳突きで息を詰まられ、頭をつけてのパンチを振り回しても足を払われて寝技に持ち込まれ、3、4回まいったを繰り返し、

「館長がお呼びです」

という事務員の言葉でその戦いは終わったが、屈辱の涙とともに自らの自信、空手に対する理念が根底から崩れ去ってしまったという。

そんな暗中模索の中、嵐五郎という名でキックボクシングデビューを果たし2戦2勝2KOを果たし、徐々にのめり込んでいたある日の朝のジョギング上りの公園で、運命の出会いを果たしたという。

大氣至誠拳法の澤井健一。

意拳、大成拳の創始者王向斉に敗れたことをきっかけに弟子となり、その真髄を会得し、大氣至誠拳法として日本にその種をまいていた六十五歳にも近い彼に見初められ、そこで盧山初雄は気の力、立禅、這、発勁、それらを学ぶことになる。

それで3ヶ月続けていたキックボクシングを辞め、会社勤めをしながら修練に明け暮れてそれに伴い食欲が爆発的に増して、五、六ヶ月のうちに身長が2、3センチ、体重が五、六キロも増えたという。

さらには縁によって大日本武徳会の範士、十段位である中村日出夫との邂逅を果たし、その暴力団員に30人を素手で相手を制し、一撃で死に至らしめるというグローブのような手、高度な理論、鋭い視線に背筋がぞっとなりながらも、2日目に立ち会い。

手を払われただけで激痛が走り、ひっくり返され、決められてしまい、続いて長さ3、40センチ、一片が7、8センチはありそうな角材を割り箸を折るように簡単に手刀で割わってしまうのを目の当たりにし、即座に弟子入り。

バーベル稽古、型練習、千本蹴り、砂袋蹴りをやらされ、血尿が出ながらも続け、4年が過ぎ25歳を迎える頃には体重174センチ体重は82キロとなり、失っていた自信も取り戻していたという。

そして6年越しに極真会館に復帰、第5回全日本空手道選手権大会に出場を決め、1年間の組み手で幾人もの後輩の肋骨をへし折ったという三日月蹴りを磨き上げ、三峰山で山ごもり執行までし、体重は77キロまで抑えたという話だ。

第5回全日本大会に出場

それまでの修練は全て壇上に現れ、しっかりと落ちた腰、伸ばされた両手、その下方からまるで槍のように三日月蹴りが相手の脇腹に突き刺さる。

すり足でジリジリと間合いを詰め、対戦相手の金鐘元を焦らし、先手を取らせ、捌き様詰めての右正拳突き、そしてものすごい払うような下段廻し蹴り、前蹴りを挟みごろし三日月蹴りと正拳突きのコンビネーション、それで場外まで追い込んだ。

続いて南米から空手留学に来ていたというポール・デルプラドという警官と戦い、3分間精一杯戦い勝利を収め、準々決勝では四国の芦原英幸の秘蔵っ子、捌きの伝承者ともいえる二宮城光と激突。

後に第10回全日本大会優勝、第1回世界大会3位に輝く男との戦いは、まずは二宮城光が速攻を仕掛けてくるが凌ぎ、一瞬の隙をついての右の正拳突き、そして三日月蹴り、下突きの波状攻撃!

さらに下段廻し蹴りを脛受けしての下突き、どっしりと構えて落ち着き払い、三日月蹴り、下突き、下段廻し蹴りで場外に追い込む。

その後も三日月蹴り、下突きのラッシュは止まらず、二宮城光を技あり寸前ではないかというところまでグラつかせ、最後は軸足への連続の下段廻し蹴りまで決め、圧勝に近いものを収める。

準決勝は同じ三段対決となり、史上初の2度、第3回及び第6回全日本大会優勝、さらには史上初の世界大会優勝者となる、佐藤勝昭と対戦。

戦いは、構えが高い佐藤勝昭と、低い盧山初雄という構図となり、まずは佐藤勝昭の前蹴り、盧山初雄の下段廻し蹴りが交錯。

そこから中段廻し蹴り、前蹴りで佐藤勝昭がどんどん攻めていき、それにやはり盧山初雄は三日月蹴り、下突きを返す。

しかし佐藤勝昭は怯まず、その長い足でどんどん蹴りを払って行き、再開直後助走をつけての飛び二段蹴りが顎を捉え、あわやという場面が見られるか、大丈夫だというポーズ。

九死に一生を得て、執念の内股下段。

飛び蹴りを躱して躱して、下突き下突き三日月蹴り下突き!

優勝しなければ二位も三位もいらないという本人の思い通り、体格、技の多彩さで上回る相手にも不屈の心で立ち向かい、蹴りをこらえて、唇が蹴り裂かれながらも懐に飛び込んでの下突き、捨て身ともいえるその戦法にかけて、延長3対0で薄氷を踏むかの如き接戦を制することになる。

そして決勝で激突したのは、第一回全日本大会優勝、第二回全日本大会準優勝、第4回全日本大会4位、しかしその実力は間違いなく飛び抜けて圧倒的であり、勝利した相手に満に1つの奇跡に近い勝ち方だったといわしめ、キックボクシングの世界でも異彩を放ち、天才の名を欲しいままにする、"日大の花"山崎照朝。

本大会においてもムエタイ、ボクシング両方で圧倒的なまでの実績を誇るディラ・チャラカンボの鉄壁ともいえるガードを超えての左上段回し蹴り2連発で1本勝ちし、準々決勝、準決勝ともに、そのあまりにも課題といわれる骨、完璧に近い受け技でまるで試合にも、組み手にもならないような実力差を見せつけての決勝進出決めている。

そういった意味では前評判としては、やはり山崎照朝有利とみて間違いなかったのではないだろうか。

そんな恐るべき相手に、盧山初雄は後の先に徹した。

“日大の花"山崎照朝との決勝

廻し蹴りの猛攻をしのぎ蹴り、中段、上段廻し蹴りを耐えて、三日月蹴りを突き差し、ぶん投げる。

軸足を蹴り、決してその肘、脛が当たるところを狙わない。

三日月蹴り、三日月蹴り、下突き。

狙いはその1点のみ。

天地の構えの穴を狙い、勝利に、勝利に、勝利に邁進する。

結局山崎照ともう最後まで有効打を放つ隙を与えられず、試合後の山崎照朝の言葉通りの、気合い負け、そこにまで追い込むことに成功した。

本戦4対0、優勢勝ち。

その瞬間盧山初雄は両手を掲げ、そして山崎照朝と抱き合った。

この戦いは主審を務めた大山茂をして空手家冥利に尽きるといわしめ、極真関係者、各種マスコミは、完成された心技の激突が大観衆に勝敗の行方を忘れさせ、深い感動の世界に酔わせた。

これぞ極真空手の精華、と絶賛させたという。

長き不遇の時代、苦しみ悩み、それを乗り越え、様々な出会い、修行、紆余曲折を経て、それが最高の形で結実した。

“三日月蹴り"の盧山初雄、その絶頂期に至るまでのキセキであるといえるだろう。

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