#31「脱出」

2020年4月4日

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 自分が妖精だという彼女の言葉が、脳裏に蘇っていた。

 彼女はずっと、手を握ってくれていた。
 ぼくはそれに導かれるように、引っ張られていった。

 普段とはまるで様子を変えている院内を、連れだって歩いていく。
 ほとんど暗闇で覆われていて、モノの輪郭ぐらいしかわからない。
 ただリノウリウムの廊下に下ろされるスリッパの音と、時折遠くに現れる非常灯だけが、知覚出来るすべてだった。

 まるで、宇宙にでも放り出されたような感覚だった。
 なのに不思議に、怖いと感じなかった。
 なにをどう考えても、彼女がその手を握ってくれていたからだった。

 こんなに歩けるわけがない。
 ぼくは元来、その筈だった。
 もし無理に歩けば、あっという間に足がもつれ、そして倒れ込む。
 その筈だった。

 なのに、歩けた。
 歩いていけた。
 そしてどこにもぶつからず、どこかに行きつくことができそうだった。

 彼女が手を繋ぎ、ぼくを導いて、くれるから。
 本当に彼女はひとではなく、妖精なのかもしれなかった。

 目の前が突然――開かれた。

「あ……」

 それは病院の玄関の、自動ドアだった。
 なぜ開くのか、わからなかった。
 時刻は夜の1時を過ぎている。
 病院を出入りする人などおらず、自然電源は落とされているはずだった。

 おそるおそる彼女から手を離し、一歩を踏み出す。
 ここを出たことが、なかった。
 だからこの敷居を越えれば、そこはもう別の世界だった。

 越えた。
 ぼくは病院から、外に出た。
 外の世界に、足を踏み出した。

「……マヤ」

 感動というよりも、ずっと禁忌だと考えていたことに触れたことに対する、後ろめたさというか、形容しがたい複雑な心地を、彼女に伝えたくて。

 彼女はぼくの手を握ったまま、

「いこう」

 ただ一言、そう告げた。





 外気は、容赦なかった。
 突き刺すような、という表現が近いかもしれない。
 薄い病院服など、弾丸の前には用を成さないように。

「うぅ、寒(さぶ)っ……!」

 咄嗟に腕を組むように、互いの二の腕を抑える。
 そして膝を下り、背中を丸めた。
 まったく寒さに耐性のないぼくは、自然の中に突如放り込まれた哀れな子羊と化していた。

 温度差というものを、甘く見ていた。
 これでは一歩なりとも、動けそうにない。

「遼、だいじょうぶ?」

「はっ、カ……さ、む……っ」

 大丈夫、とさえ言えなかった。
 ただみの虫のように、ぼくは丸くなることしか出来なかった。
 外の洗礼は、純粋培養されてきたぼくには耐えられないものだった。

「遼」

 呼ばれた名前に顔を上げると、彼女は手を差し伸べていた。
 それにぼくは身体を庇う手を離す抵抗を感じたが――だけどそれしか縋るものが、なかった。

 信じられるものは、彼女しかいなかった。

「う、ん……っ」

 なんとか二の腕から手を離し、そしてぼくは彼女の手を、掴んだ。
 するとなぜか、寒さが和らいだ気がした。

「あ……」

 それにゆっくりと、立ち上がる。
 立ち上がることが、出来た。
 そして、歩き出す。
 歩き出す気力が、出てきた。

 そして、前を。
 前を見ることが、出来た。

「……マヤ?」

「いける、遼?」

 当然の答えだった。

「うん、いこう」
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