#31「脱出」
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本編
自分が妖精だという彼女の言葉が、脳裏に蘇っていた。
彼女はずっと、手を握ってくれていた。
ぼくはそれに導かれるように、引っ張られていった。
普段とはまるで様子を変えている院内を、連れだって歩いていく。
ほとんど暗闇で覆われていて、モノの輪郭ぐらいしかわからない。
ただリノウリウムの廊下に下ろされるスリッパの音と、時折遠くに現れる非常灯だけが、知覚出来るすべてだった。
まるで、宇宙にでも放り出されたような感覚だった。
なのに不思議に、怖いと感じなかった。
なにをどう考えても、彼女がその手を握ってくれていたからだった。
こんなに歩けるわけがない。
ぼくは元来、その筈だった。
もし無理に歩けば、あっという間に足がもつれ、そして倒れ込む。
その筈だった。
なのに、歩けた。
歩いていけた。
そしてどこにもぶつからず、どこかに行きつくことができそうだった。
彼女が手を繋ぎ、ぼくを導いて、くれるから。
本当に彼女はひとではなく、妖精なのかもしれなかった。
目の前が突然――開かれた。
「あ……」
それは病院の玄関の、自動ドアだった。
なぜ開くのか、わからなかった。
時刻は夜の1時を過ぎている。
病院を出入りする人などおらず、自然電源は落とされているはずだった。
おそるおそる彼女から手を離し、一歩を踏み出す。
ここを出たことが、なかった。
だからこの敷居を越えれば、そこはもう別の世界だった。
越えた。
ぼくは病院から、外に出た。
外の世界に、足を踏み出した。
「……マヤ」
感動というよりも、ずっと禁忌だと考えていたことに触れたことに対する、後ろめたさというか、形容しがたい複雑な心地を、彼女に伝えたくて。
彼女はぼくの手を握ったまま、
「いこう」
ただ一言、そう告げた。
外気は、容赦なかった。
突き刺すような、という表現が近いかもしれない。
薄い病院服など、弾丸の前には用を成さないように。
「うぅ、寒(さぶ)っ……!」
咄嗟に腕を組むように、互いの二の腕を抑える。
そして膝を下り、背中を丸めた。
まったく寒さに耐性のないぼくは、自然の中に突如放り込まれた哀れな子羊と化していた。
温度差というものを、甘く見ていた。
これでは一歩なりとも、動けそうにない。
「遼、だいじょうぶ?」
「はっ、カ……さ、む……っ」
大丈夫、とさえ言えなかった。
ただみの虫のように、ぼくは丸くなることしか出来なかった。
外の洗礼は、純粋培養されてきたぼくには耐えられないものだった。
「遼」
呼ばれた名前に顔を上げると、彼女は手を差し伸べていた。
それにぼくは身体を庇う手を離す抵抗を感じたが――だけどそれしか縋るものが、なかった。
信じられるものは、彼女しかいなかった。
「う、ん……っ」
なんとか二の腕から手を離し、そしてぼくは彼女の手を、掴んだ。
するとなぜか、寒さが和らいだ気がした。
「あ……」
それにゆっくりと、立ち上がる。
立ち上がることが、出来た。
そして、歩き出す。
歩き出す気力が、出てきた。
そして、前を。
前を見ることが、出来た。
「……マヤ?」
「いける、遼?」
当然の答えだった。
「うん、いこう」
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