うつ病と神経不安症 死にたい気持ちと生きたい心、家族の介護と苦難、現代の耐えがたい現実!
社会不適合者
現代は生きづらい世の中だと言われている。
いや、こんな格式張った、普遍的な、傾向的な言い方はこの際なしにしよう。
私は社会不適合者ではないかと思えるほどに、今現在進行形で、本当に生きづらい思いを感じている。
私は2023年と言うこの年のことを、この夏を、もし乗り切れたのならば、2度と忘れる事はないだろう。
それほどの衝撃が、出来事が、苦しみが、私を襲っていた。
思い知らされた。
わかっているつもりで、しかし結局のところそれは他人事で、自分事としては、全くこれっぽっちもいなかった。
今までの日常はこれまでも続き、それがいつまでもいつまでも、未来永劫変わることがないのだと、もちろんそんなこと頭では在り得ないと理屈では理解していても、実際のところ、本当の意味で自分事に置き換えられてはいなかった。
結局のところたまたま偶然の積み重ねで、自分がここにいるのだろう。
それが途方もないほどの細い断崖の先で、砂上の楼閣の上で、今この瞬間にも崩れ落ちて、奈落の底に沈んでいきそうな。
生きることに意味がないという事はもうずいぶん前に結論が出ている。
それは生きる道を見失い、そこに意味を見出し、見出せない数多いる人々を導く立場の先達によって、もう間違いのない答えとなっている。
しかし果たして人は追い詰められた時、それがわかっていてもなお、それを問い続けてしまうものなのだと。
わかっていた。
鬱病
一度うつ病になり、とことんのとことんまで追い詰められて、そこで繰り返し繰り返し自問して答えの出ない、今、答えのない、意味のない、ただ自分を打ちのめすだけの反芻。
ただ今の自分を嘆き、責任の所在を押し付け、責めることで、一時の苦しみから逃れようとして、それが2倍にも3倍にも10倍も自らの身に降りかかるという、とんでもないウロボロス。
しかし本当に思うのが、まずは単純な経済的な極限までの困窮。
一食、納豆と卵を合わせた焼き物、そうめん、食パン1枚で済ませなければいけないような極限状態、それに加えて知り合いの問題、付随した連鎖的な悩み、苦しみ、それが自らを打ちのめし、もうどうしようもないところまで立たせようとする。
はっきりって、そこに武道精神だとか、わかりやすい答えがあるわけではない。
だがその稽古の過程で獲得した苦しみを乗り越えたという経験、単純な運動としての自らにもたらす幸福感、その間考えなくて済むと言う恩恵、それは厳然と確かに存在するのだ。
今回このような動画を出すべきかどうか、正直ずいぶん悩んだ。
しかし実際あまりにも無駄に考えすぎて、空回りするのも、意味がないのではないかとも考えたして実際自らの証言するただ外いないのだから、そしてこれを伝えたいと言う気持ちもほんのわずかでもあるのだから、良いのではないか、ずっと考えているよりはマシでは無いのかと考えた結果だった。
私は今、とても苦しく、生きるべきかどうか否か、そういうところまで追い詰められているというのは事実なのだ。
その上でしかしそういった甘言に流されることなく、不屈の精神で、いやそうではなく、ここまで頑張ってきた自らに報いるために、そうあえて言ってしまえば自らのために奮い立ち、負けず、生き抜き、生き抜き、生き抜きたい。
これは自らのために記した、決意表明と見れるかもしれない。
ずっとこの気持ちでいられるかどうかわからないが、この気持ちでいることを忘れずに、そしてすべての問題、皆の問題が完璧に解決し、良い方向に向かうことを、ただただ願い、前を向いて、歯を食いしばり、しかし無理せず、皆を、そして自らをいたわり、認めてあげて、そして武道家としてのそのあり方も最大限、いや、ほんのわずかでもいいから、それを糧に、私は生きたい。
私は生きたいんだ。
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