“拳聖”澤井健一 大山倍達と赤城山で決闘!盧山初雄、カレンバッハに道を伝え”ケンカ十段”安田英治と死闘を繰り広げ気の概念を持ち込んだ歴史的武術家!
拳聖
同じ呼び方を持ち、武の根源とも言える剣の道において剣客、剣豪、その上に存在する剣聖。
その冠をいただいた人物と言うのは私の知る限りただ2人、上泉伊勢守信綱、柳生石舟斎宗厳しかいない。
まさに剣の道を極めしもの。
そして同じく分の道を志す武道家の中で、その拳による聖という領域にまで到達したとされる人物。
それこそが澤井健一である。
澤井健一は幼少の頃に武道を学んだとされ、柔道5段、剣道4段、居合道4段を取得し、その後30代の1番脂ののった時期に中国に渡り、北京にて60歳を迎えていたと言う大成拳の創始者である王向斉とたちあったという。
その時のことを澤井健一は、
王向斉と立ち会う
君、強いのなんのって、私はかつてあんな先生にお目にかかった事は無い。
私も中国に渡る前は日本でかなり武道をかじった。
柔道も五段もらっているし、三船先生や徳三宝先生にも随分と稽古をつけてもらった。
また、居合道のほうもかなり進んで、腕には自信があったつもりだよ。
その私が、あの小柄な先生と立ち合い、めちゃめちゃやられてしまった。
それも普通のやられ方ならまだ諦めもつくが、程度を越したやられ方をしてしまったんだ。
得意の柔道で組み付こうとするたびに何度もはね飛ばされる。
そこで今度は、先に組み付かせてもらうと「それで良いのかね?」といわれ、「よい!」といった瞬間、心臓を打たれ、またもやはね飛ばされていたという。
後に澤井健一はこの時のことを、ぴりっと刺すような、 そして心臓が揺れるような変な痛さで恐ろしくなったと語っている。
さらに得意の剣でも挑んだが、結果は全く同じで、 その時王向斉は静かに剣も棒もすべて手の延長なのだと静かに言われたという。
完敗という結果にあまりのショックを受け、食事ものどを通らないほどであったが、 遂に弟子入りを決意。
その際王向斉に、
私の技は激しい滝を登る鯉以上で、無から有を得るものである、
教えて教えられず、習って習えず、万人中一人も習得が難しい技なのだから、どうせできるかどうかわからないものを何年も無駄な修行を積むより、初めから何も知らなかったものとして諦めて帰った方が良いのでは、と悟されたと言う。
しかし澤井健一はそれに従うことなく、通常では考えられないほど礼節を重んじる中国の武道界では日本人の弟子などまずありえないと言われていたが、王向斉のもとに通つつめ、1週間とも1ヵ月ともされる時をかけ、血書までしたためだ末にようやく弟子入りを認められるに至ったと言う。
そこからの練習はやはり上記を逸したものであり、説明もなくただ立っていろと言われ、ほったらかされて、ひたすら立禅を続け、王向斉が姿を現すは週に1度だけ。
それも稽古場を1周して何も言わずに帰ってしまう、さすがに澤井健一も1年、2年が過ぎた頃になると意味を見出せなくなり、嫌気がさしてきたと言うが、しかし絶対にやめないと言う血書まで書いた手前、今日やめよう明日やめようと思いながらも何とか続けたと言う。
立禅
すると不思議なことに、澤井健一の体がいろいろな面で変化し、あるときは真っ白い牛乳のような小便が出たり、眠っていると頻繁に体がピクっと動いたり、またある日立禅をやっていると突如として力が非常に充実してくるのがわかり、熊でも虎でも上ちぎってやろうと言う気分になり、王向斉が、私は地球をも持ち上げることができると常に言われていた意味を理解したような気になったと言う。
そんなある日上海のキャバレーに行った際、日本人同士のいざこざがあり、仲裁に入ると拳を振るわれてしかしその瞬間澤井健一自身は全く理解しない、意図しないままに無意識に自らの手がそれを払い、全く同時にもう片方の手で攻撃を加えていたと言う。
それにより相手はものすごい鼻血を出して倒れ、澤井健一は拳法に興味を示すようになったという。
なんでもないようだが、本当に何でもあるんだと。
誰よりも王向斉に礼儀を尽くし、物資の貧しい時代にあって毎月車で、小麦、米、干し肉などを王老師のもとに届け、修行年数も3年を過ぎ、王向斉も一言二言喋ってくれるようになり、そのお宅へ伺い逆技を含めいろいろな技を習ったと言う。
その際の教えとして、拳法を学ぶのは、常に当たり前のことを自然に行うだけである。
川に水が流れ、空高く旗がはためき、波に揉まれる魚のように自然のままで、必ずしも形式を追求しない、形あるもの、あるもの全て仮のものであるが、技が至れば無心にしてまさに真技となるのである。
さらに気の力に対しては、
己の力は、例えてみれば回っている独楽のようなものである。
みたところ止まっているようで、無力に見えるが、触って弾き飛ばされたとき、初めてその力を理解し得る。
それと同様に行きの力は何十回、何百回、あなたに説明してもわからないだろう。
しかし、私と立ち会って気持ちからは少しは理解したと思う。
だが、あなたがその力を習得するには立禅の中から、自ら悟る他が道は無いのである。
気の力とは、息の中に石を投げた瞬間、悠然と泳いでいた魚がピッと方向転換するようなものである、と語られたと言う。
そのように武のあり方、そこから実践に至るまでの叩き込まれ続け、修行に明け暮れる中、日本は敗戦を迎える。
それにより当社澤井健一は一家自決を考えていたというが、王向斉が家を訪れ、日本人は物事に対して一生懸命になるが、いちど失敗するとよく死にたがる。
それは愚かなことであり、自分から死んでも何の役にも立たない。
幸い君は殺される事は無いであろう。
できるだけ早く中国を去って日本に帰りなさい。
それが大成拳の道の為でもある。
間違っても死ぬような考えを起こさないように、と何度もさとされ、帰国。
大氣至誠拳法
その際に、王向斉から、帰国してからも必ず立禅と這だけは続けなければいけない、日本に帰り、ここで学んだことを人に教える義務が生じた、と言われ、大成拳を大氣至誠拳法と名乗ることを許されたと言う。
帰国後、50歳を過ぎて、関東一円を武者修行に渡り歩き、明治神宮にて、王向斉の教えで自然の中にて稽古を行うことを主義とし、常設道場を持たず、青空の元、明治神宮を拠点として指導を行ったと言う。
特に毎週日曜の指導では、目や、近的への攻撃も許される過酷な実戦組手を弟子たちにやらせ、また指導に当たっては形と言うものをあまり教えず、身をもって示す事はあっても、自然とそうなる、そうなる場合もあると良い、形を真似してしまうことを危惧していたと言う。
さらに極真会館の大山倍達とも交流があり、映画「猛牛と戦う空手」の中で、赤城山の決闘と言う題目で、模範組手を繰り広げている。
大山倍達との決闘
2人の戦いは、お互いが開手にして、大きく両手を広げて、間合いを取り合う、まさに達人然としたものとなり、まずは澤井健一が右手を前に着っかけるように攻撃を仕掛け、それは大山倍達がさばきながら右の鉄槌で反撃。
さらに拳を握って、その手のひらの方で振りかぶって打つと言うまさに実戦を思わせる攻撃を繰り出す澤井健一。
大山倍達の飛び2段蹴り、右の上段突きを屈んで躱し、両手を広げて、ラリアットのように振り回し、そのまま勢い余って雪の上に倒れこむ。
お互いが中段で、手刀受けの形で、奇しくも似たような構えで向き合う。
飛びかかったところを、捌かれ、手形打ちを食ったように見えたが、しかしその一瞬で間合いを詰めて、両手と全身のバネをため込んで気合とともに一気に吐き出す、発勁が炸裂。
体重80キロを超えると言う大山倍達の体が、雪の上で2回転。
静かに向き合い、澤井健一の右正拳突き、大山倍達の手刀打ち、さらにとび2段蹴りを躱して、右の振り打ち。
右の前蹴りを躱され、捕まりそうになったところを身を翻し避けて、逆に巴投げを仕掛けて、さらに巴投げ、そこでごろごろと転がり、上を取ろうとするが、大山倍達はそれを躱して飛び二段蹴り、さらに詰めたところをつかまれ、押し倒されて手刀を振るわれそうになったところ、それを受けて、関節技で投げ飛ばす。
一触即発のピリピリとした緊張感のまま、映像はそこで終わりを迎えた。
そしてそんな日々を過ごす中、その事件の当事者とも言える人物の言葉を借りるならば、澤井健一が65歳に近い自分、ある邂逅が行われたと言う。
極真空手、そしてキックボクシングの第一人者とも言える、盧山初雄、彼が公園で練習をしている際に、ある老人――澤井健一がこちらを見ていることに気づいたと言う。
盧山初雄との邂逅
その時期澤井健一は中国拳法の達人と言うことで以前から極真会館を訪れており、しかしそれまで盧山初雄は1度も話したことがなく、お年もお年と言うことであまり意識もしていなかったと言う。
そんな盧山初雄に澤井健一は、
君は極真会館で見かけたことがあるが、今何をやっているのだ。
そんなもの、いくらやってもだめだな。
挑発的な言葉に盧山初雄がキックボクシングのことを説明すると、
君みたいな若い人にならいざ知らず、私のようになってからでもそういう練習できるかね。
私は昔、中国にいたのだが、中国の南方にはキックボクシングで似た拳法はたくさんある。
しかし、動きは派手で空中で一回転二回転しながら相手を蹴るような技でも、内家拳の達人の前では敗れてしまうのだよ。
そんな言葉に未だ要領を得ない盧山初雄に対して澤井健一はさらに続けて、
君は一生懸命やっているようだから、今日は1つ教えてやろう。
君は蹴りが強そうだから、1つ私を力いっぱい、蹴ってみなさい。
それに対して盧山初雄が軽く廻し蹴りを出すと、澤井健一はその瞬間腰を落として中に入り、気がつくと盧山初雄は尻餅をつかされていたと言う。
それに続いて前蹴りを放つと、澤井健一は少し腰を下げて手を下からちょこんと押さえるように払い、蹴りは届かない。
さらに突けと言われて、腹を狙って思いっきり突くと、その瞬間に払われ、後を向かされてしまったという。
そして澤井健一は、
攻撃にも受けにも理と言うものがある。
全てがその理にかなっていなければだめだ。
理にかなえば私のように歳をとっても衰えず、かえって歳とともに円熟する。
それが本当の技だ。
さらに納得のいかない盧山初雄に対して、
君は疑っているようだが、1つ気の力を見せてやろう。
気の力――発勁
私を力いっぱいつかんでみなさい。
それに従い両手で思いっきり掴むと、澤井健一はそれで良いのかねと確認し、短い、腹のそこから絞り出すような気合をかけ、逆技も使わずものすごい力で盧山初雄の手を払ってしまったと言う。
さらに今度は私がつくから、君、ちょっと堪えてみなさいと言い、盧山初雄の腹に拳を当てて触れたままの状態で同様の気合をかけ、軽く突くと、澤井健一の手が腹にメリコミ、背中が痛くなったと言う。
思わず腹を抱え、うなり、その後今度は手を掴まれて軽く引っ張られ、まるでむち打ち症のように首筋が痛くなり、その時の盧山初雄は言葉ではとても表現できないものすごい力を感じたと言う。
それを終えて澤井健一は、
人間には、火事場の馬鹿力と言われる力がある。
だれでも自分にはわからない力を持っているんだよ。
しかし、長い間の修行により、もっと強い力を意識的に使えるようになれるのだ。
しかし、その力を得るためには、最も早い人で最低5年、その他の人で10年、20年、あるいは一生かかってもこの力を得られない人もいる。
この力を、一度得ると私のように、歳をとっても衰えると言う事は知らない。
その時の盧山初雄は、今まで信じていた自らの空手、力と言うものを、オランダからやってきた柔道も使いこなす、187センチ110キロ近くと言う巨人カレンバッハにより完全に根底から崩され、これからの道と言うものを見失っていた時期であり、この出会いに狂喜し、即座に弟子入りを願い出たと言う。
そして立禅、発勁、這、それらを徹底して叩き込まれるとこになる。
その際語った言葉として、
君、立禅を1時間半から2時間立てるようになり、心をずっとすましているとなんというか、何が何だか分からなくなってくる。
もうその時はどこで誰が喋ろうが、蜂が来て刺そうがわからない。
自分がどのように立っているのかすらわからなくなる。
おそらく、この心境を無念無想と言うんだろうか。
そうなれば相手と立ち会っても、相手が見えない。
多分、王向斉師匠がそのような心境だったのだろう。
君は今まで空手、キックボクシングといろいろなことをやってきたが、それらは全て無駄ではない。
立禅と這をやる過程でそれがみんな生きてくる。
その後盧山初雄は技量はもちろんのこと、体格的にも非常に充実していき、五、六ヶ月で体重が五、六キロ、身長も2、3センチ伸びて、その後紆余曲折を経て結果的に極真空手の第5回全日本大会優勝、そして第一回全世界空手道選手権大会準優勝に輝くことになる。
さらにはその盧山初雄を介して、その人生を変えることになったきっかけとも言えるヤン・カレンバッハもまた居合、杖術などを学ぶ中で澤井健一と結びつき、心酔し、その下で修行を重ね、教士七段を授かり、オランダへ帰国後は心武拳道場を主催し、大気拳の第一人者として活躍していると言う。
しかしそんな澤井健一も、不覚をとってしまった、そしてそれが皮肉にも結果的にあまりにも有名にして伝説的なものになってしまった戦いがある。
ケンカ十段、安田英治。
“予告前蹴り"安田英治
剛柔流の山口剛玄、松濤館の江上茂、大山道場、そして極真会館の大山倍達、それぞれに師事し、全てにおいて高段位を取得し、まさに空手を極めし武神とも言える人物。
その彼と、澤井健一が相対することになる。
それは安田英治の話によると、ある日稽古の終わる頃、澤井健一が道場を訪れ、おもむろに道着へと着替え、拳法の動きでバタン、バタンと初段あたりの生徒を2、3人同時に倒してしまったというのだ。
さらに指導員も巴投げされてしまい、仕方なく大山倍達が安田英治にお手合わせしてもらいなさいと指示。
その際に当ててかまわん、と小さく耳打ちしたと言う。
そこで安田英治は、当てないとこちらがやられる、飛ばされるわけにいかない、大山道場は大した事ないと言われてしまうと思ったという。
そして――
それでも思いっきりではなかったけれど、自然の力は大きいもので、なんともない前蹴りがタイミングよく腹に、同時に顔面に正拳が入り、澤井健一は倒れた。
そして澤井健一は腸断裂の重症を負い、3カ月間矢部病院に手術、入院したという。
その時たまたま来ていた記者に写真を撮られ、その事実は一気に公のものとなった。
その安田英治の前蹴りは、対戦相手に今からやるぞと伝えておいて、その状態で蹴り込み、それでもなお相手は防げないほどの威力とスピードを保有していたと言う、通称予告前蹴り。
それで安田英治は責任を感じ、空手をやめようかとまで思ったと言う。
しかしそんな危機を乗り越え、ますます後進の指導に激しい情熱を持って挑み、78歳のときには相手の前蹴りを受けて、金的蹴りを返すと言う非常に実戦的な指導を行っている映像なども見受けられ、
さらに屋内にておそらくは弟子を相手に、どんどん間合いを詰めて、左右の手を顔面にぶちこみ、相手の攻撃を意に介さずに頭から突撃してみたり、
そしてまるで波のようにダンスのように体を自在に使う動きを指導したり、80歳と思えない機敏な動きで周囲を驚かせている様子や、
79歳には伝説の神宮の森で普段着にて普段着の皆に指導を行っている光景が見受けられる。
80歳を過ぎても自ら弟子に胸を貸しての実戦組手を行い、歳をとっても衰えない若者以上の俊敏さ、力強さ、しなやさ、芸術的とさえ言える独特な動きを自ら示し、修行と指導を重ねたという。
大氣至誠拳法の意味については、大氣拳は大成拳であり、誠に至るとは大成拳に至ると言うことである、と述べていたという。
様々な武道家、武術家、格闘家に計り知れないほどの影響与え、日本ではそれまでなじみがなかった気という概念を持ち込んだ、まさにパイオニアとしてのあり方。
日本の武道、格闘技史を語る上で、欠かせない人物である事は間違いないと言えるだろう。
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