己を鍛え皆と乗り越える武道の現代社会での道場、仲間の役割とは!
極真空手は武道である
もちろんその本質は強さを追い求める、そのことにある事は間違いないが重要なのはその武道と言うものが生活に即して、人生をより良くするものであると言う点だ。
現在コロナ禍、さらにはロシアのウクライナ侵攻など大変な危機が地球全体を襲い、世界的な混乱に満ちており、その中でいかに生き抜くかと言うことが人類全体にとっても大きなテーマになっている。
そんな中で、武道が果たす役割とは何か?
私の先生が、よく語っていたことがある。
強いか強くないか結果であり、重要な事は日々の修行にある。
まぁ実際その通りの文面を話したと言うわけでは無いのだが、長く話を聞き、考えに触れ、その結果私が至った結論がそれになる。
そしてその修行で、一体何を求めればいいのか?
見つければ良いのか?
人生とは自分の思い通りにはいかないものだ
それは私が不治の病である潰瘍性大腸炎になったり、うつ病になったり、まっすぐと目指していた小説家にそのままなる事は叶わなかったことなどから、学んだことでもある。
それに加えて私などは語らなくても世間的に不問律のように口にされている文言でもあり、ケンタッキーフライドチキンを作り上げたカーネルサンダースも、もともとは全く別の業種で、別の仕事を様々手がけており、あのアメリカ大統領になったリンカーンも、それまでありとあらゆる事業に手を出し、その全てに失敗したと言う恐るべき経歴を持っている。
そして現代社会においても、不測の事態の連続で、むしろ何も信じられることや、予測できることなどないのではないかと言う状況の中で、どのように生きれば良いのか、どのように考えればいいのか、それに迷っている人は多いと思う。
そんな時、武道に携わり、決して楽ではなく、自分を追い込む厳しく、そして基本的には前の前でも、同じことの繰り返しと言う、その修行に身を投じる。
最初は慣れるまできつく大変で、そして慣れたらなるため、同じことの反復による飽き、じれったさ、意味の追求など、様々なこと、想いに襲われる。
正拳中段突きと言う最も有名な技1つとっても、その腰の入れ方、力の抜き方、捻り方など、考えるべき点は非常に多岐に渡るが、それを踏まえなければ、ただ拳を突き出すだけの反復運動にもなり下がる。
そして移動稽古は、動きこそ違えど、その一連の流れは当然のように同じものであり、ただ行っているだけではそこに意味を見いだすことがやはり難しいのかもしれない。
それに加えて筋力トレーニング、柔軟、スタミナトレーニング、サンドバックやビックミッドなどの蹴り込み練習。
その果てに行われる、対人練習である組み手。
単純に楽しいかと思われると難しいかもしれないそれらの練習を乗り越えた先に、対人練習があり、そこで強いものは弱いものに自分の未熟さを思い知らされ、打ちのめされ、それは壁となって立ちはだかる。
現代において、強くなりたいからと言う理由で入門する人は、かなり減っていると言う。
強さ以外のものを求める
大山倍達が創設し、空手バカ一代と言う漫画が大ブームになっていた頃は、その入門の理由のほとんどが喧嘩に強くなりたいと言う事だったらしいが、今はまさに時代が変わっていると言う。
つまり、やられて、悔しくて、それでやり返してやろうと、見返してやろうと、強くなると言う気持ちだけでは、そこに立ち向かうことが難しいと言うことになる。
そしてそこにこそ、現代社会において武道空手が果たす役割があると言えるかもしれない。
基本的に空手事、老若男女が分け隔てなく集まる場面と言うものもないかもしれない。
老いも若きも男も女も、皆道着に袖を通し、組み手の際はサポーターをつけて、構えをとり、各々が突き、蹴りを放つ。
そしてその中で、それぞれの技量に応じて、加減をしたり、技を教えたり、怪我をしないように配慮したり、そしてときには技量が釣り合った場合には激しく技を交換したりと、時々に応じた立ち振る舞いを見せる。
相手を痛めつけること、捻じ伏せること、それが目的ではない。
修行の目的はあくまで、冒頭に述べた通りだ。
道場の役割
その中で、学校や職場などではなかなか交流することのない世代や異性の人間たちと、拳と足を使って対話し、そしてその一通りの練習が終わった後は、実際に言葉を交わし、思いを交換し合う。
そういったことが行える場と言うのも、なかなか類を見ないのではないかと思う。
実際どうしても、学校や職場など、一定の決められた、似たようなジャンルの人間たちとだけ交流していると、考えが固まり、煮詰まってしまいがちなものだが、そんな時に全く違う人種から、全く違う方向の考えを受けることで、大いに刺激になったり、ひょんなところから出口を見つけたりもすることもある。
それが単純に表面的に話すだけならば、どう話せばいいかと戸惑うこともあるだろうが、実際に苦楽を共にし、辛い修行を共に乗り越え、その先で拳を実際に交換し、言葉を超えた交流を持った後に話すとなると、またその言葉が持つ意味も、力も、違ったものになるだろう。
しかしその交流も、道場だけのものではなく、1人稽古をして、考え、悩み抜き、その末で道場で試行錯誤して交わしたものならば、また1つ、重みも違ってくるのかもしれない。
人生においては、やりたくないこと、しかしそれでもやらなければならないこと、その連続とも言える。
それはまた、道場に通い、辛さを乗り越え、そして組み手、試合において、恐怖を乗り越え、その果てで本当の意味での仲間となり、その達成感を味わうことも、大きく長い人生における、縮図となり得るだろう。
どうしても人と人の交流は、言葉に触ってしまいがちだが、しかし言葉で解決できるものも、それほど多くはなく、理屈が通じない、理不尽な世界で生きている以上、それを超えた力と言うものを、獲得できる場とも言えるかもしれない。
とりとめのなくなってしまったところもあるかもしれないが、最近私もまた1つ正念場というか、辛い場面に遭遇し、思い悩んだところに、武道空手の持つ意味を考え、ある種それに助けられていると実感することがあったので、考えるままに綴らせていただいた。
私が普段紹介している、強く、激しく、美しい技を使う、素晴らしい選手たち。
それは敬意を表すべきものであり、後世に伝えていくべきものでもあるのは間違いないのだが、それとはまた別に武道空手としての一面、精神性、その人生の活かし方、それもこれから追求して行けたらいいと考えている。
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