黙想 稽古前後に行われる秘められた武道空手の深奥とは―

2024年2月3日

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黙想

極真空手の稽古においてそれを始める前に正座してまず初めに行われるものだ。

集合し、列をなし、指導する立場が指導される立場と向き合い、正座をして、両手を拳の形にして足の付け根につけて、そして指導員の黙想、と言う号令とともに、皆一斉に目を閉じる。

その後の黙想の時間は人によってまちまちだったりするが、ある程度大体30秒から1分と言う体感的にはところだろうか。

30秒未満だと短すぎて、一度先生に怒られている人を見たこともあるし、1分を超えてしまうと「ちょっと長くね……?」と言う言葉が漏れているのを聞いたことがあったりもする(笑

その後黙想やめ、と言う声とともに目を開けて、正面に礼、今から稽古始めますと言う言葉で、立ち上がり、その日の稽古が始まる。

そしてすべての稽古を終えた後に、正座をし、道場訓を皆で復唱した後、再び黙想し、礼をして、その日の稽古を終える。

現代日本において、この黙想、それをする機会と言うのは果たしてあるだろうか?

黙祷ならばある。

黙祷とは押し黙り、祈りを捧げることをいう。

主に死者に対し、弔いの意をこめて祈りを捧げる行為を言うことが多いだろう。

病気、事故、それらによって亡くなられた方に、哀悼、追悼の意を込めて――

それに対して黙想は、目を閉じ、自らの内面に深く沈思しする行為を指すと言う。

自らを見つめ、自らと対話し、ときには自らの内面を隅々まで探り、その末に故人や神や自分の信じる信仰における絶対的な存在と触れ合い、故人への思いや人生、生きることの意味について思いをめぐらす行為を言う場合もあると言う。

瞑想との違い

さらに最近では瞑想――マインドフルネスが日本を越えて世界で大変の注目を集めていると言う。

その主たる目的は、もちろん立場や教える人や様々な要因によって違いは大きくあるのだろうが、私が調べた限りでは今現在この瞬間に気持ちを置くために、自らの呼吸を見つめると言うことらしい。

人は1日に六万回思考すると言うが、その思考を止めるために、現在の自らの置いている状況、部屋であるならば部屋、その形、広さ、そして自らのいる位置、座っている場合には、あぐらをかいている場合、その床、座っている体制、かかっている負荷、横たわっている場合はその背中の感覚、そして自らの呼吸、今吸っている、吐いている、吸っている、吐いている、それによって胸が膨らんだ、縮んだなど、その事は判断せずにただひたすらに受け入れ、見つめ、それによって得られる、現在と言う事の把握、無心の境地を目指していると言う。

それよりリフレッシュし、新たな発想や、大いなる休息、深い集中力などを得る事を目的とするらしい。

つまりかなり大雑把に捉えてしまえば、瞑想が考えないことを目的するのに対して、黙想は自らとの対話を目的としている。

まず稽古を始める前に黙想して、稽古終えるときに黙想する。

その意味について考える。

そう、つまりは、その通りなのだろう。

これから行う稽古、その意味、目的。

それが初めてならそれに対しての意気込み、恐怖、もし初めてでないのならば、それまでに行ってきた稽古、もしくは試合、得られた経験、それらを想い浮かべ、思い起こし、それによって自らが求めるべきものを定める。

もしくは現在の状態、健康であるならばやる気に溢れ、怪我をしているのならばそれに見合ったもの、体調が良くなければ、その加減、またははっきりとこういう技を身に付けたいと言うものがあればそれに向けて、苦手意識があるのならば、今までと違った稽古、そういった対策、やり方、それを考える時間。

またはさらに深く、空手とは、武道とは、実戦とは、自分がそれとどうやって向き合えばいいのか、それをも考える時間。

さらにそれが進めば故人や神や自分の信じる信仰における絶対的な存在と触れ合うことになり、新な扉が開くことになるかもしれないが、そこまで言ってしまえば稽古の支障になるかもしれないから、ある意味では30秒から1分ほどと言う現在の大体表示の時間も、考えられたものと言えるかもしれない。

そして稽古。

この時間、ただ闇雲に目を閉じたり、子供の時にやるだろう皆が目を閉じているときに半眼だったり目を開けなかったりして無為に過ごすか、本当の意味で黙想を行い、自らと向き合ったが、それによって、その稽古の内容や深さは、もしかしたら全く違ったものになるのかもしれない。

日々の稽古を常としているものならば、その数は膨大なものとなり、そのさは顕著なものになるかもしれない。

そして自らの目的や課題、状態、それを向き合った上で最適の稽古を行い、そして迎える、道場訓七か条の復唱、その後に行われる黙想。

道場訓を復唱した後というのが、ある意味では肝なのかもしれない。

道場訓との兼ね合い

道場訓は、極真空手を行う上での、模範的な心構え、あるべき生き方、道筋、それから掲げられている。

1日の稽古を終え、それらを再確認して、その後行う黙想。

稽古前に行った、その黙想によって把握したであろう状態、指針、目標、それに加えて武道家としてあるべき道場訓を確認し、それらを照らし合わせ、その結果自らの胸の内に渦巻くものは何なのか?

単純な目標達成だけではなく、生きる指針や、あるべき姿、その上で自らが行った稽古、辿るべき道、その先、それを自らどう捉え、その上でどうしていくか、どうあるべきか、どう変えていくべきか、どう変わらざるべきなのか、そういったものを、おそらくは数値的、理屈上ではなく、感覚的に捉える。

30秒から1分と言う時間は、それを時系列で追うには、あまりに短すぎる。

さらにはそれは生涯をかけて考えるべきレベルのものであり、毎度の稽古に持ち込むにはあまりに重過ぎる。

だからこそ、宮本武蔵の言う、空の境地に至り、ただ自分の心が指し示すままに、それを考え、向き合い、受け入れ、その都度都度、何かしらの考えを浮かべていく。

考えること、考え続けること、もしかしたらそれこそが答えを得ることよりも、より大事なものなのかもしれない。

武道、極真カラテ、その中に黙想が組み込まれている、その位置づけ、意味合い。

未だ結論が出ないことこそが、もしかしたら出していないことこそが、私が武道の道を歩いていること、その証明になるかもしれないと、ふと考えたりした。

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