木村政彦 史上最強の柔道家!塩田剛三、大山倍達と切磋琢磨しグレイシー柔術に勝ったその真実の武道史!

2024年4月9日

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木村の前に木村なく 木村の後に木村なし

世に様々いる武道家、格闘家そういった強豪たちの中でもこれほどまでに強烈な文句で称えられたものと言うものは果たして他にいるだろうか。

木村の前に――歴史上彼を超えた存在おらず、そしてこの後、どれだけ柔道と言う競技が発達し、進化し、新たな技が開発され、不世出の柔道が輩出されようとも彼を超える事はありえない。

それほどに断言された、史上最強と謳われた、柔道家木村政彦。

現役時代203連勝、および外国人相手に無敗と言う大記録を打ち立て、ロサンゼルスオリンピックでは金メダルを獲得している山下泰裕をして、一歩でも二歩でも日本でも近づきたかったと語るほど偉人だ。

木村政彦の柔道は、一言で表すならば、彼のこの言葉に集約されると言って良いだろう。

「死んでもやり遂げると、柔道の為なら死んでもいいと、死を枕にともにしてもいいと、というような感じの下に精進いたしました」

名門鎮西中学で早くも全国制覇、18歳で脅威の四段を取得、早稲田、慶応、明治といった多くの大学が学費免除でスカウトに訪れる中、木村政彦は当時無名であった拓殖大学を選び、同じ熊本でありさらには鎮西の先輩であった牛島辰熊に師事することになる。

当時家が貧しかったと言う彼は牛島の、
「俺のところに住めばいい、小遣い銭位はやるよ」

というその心意気に惹かれたと言う。

そこで全日本選手権を都合5度の優勝、眼球を負傷してもなお戦い続け、猛虎として恐れられていた牛島辰熊に徹底的にしごかれることになる。

木村政彦は寝技で連日締め落とされ、さらには段取り中頻繁に当身――拳を食らわされ、開催された講道館の紅白試合においての木村政彦五段昇段審査にていきなりの8人抜きの快挙をあげ、技量抜群で5段に昇段したが、それを報告すると鉄拳を加えられ、次の言葉を告げられたと言う。

「試合は殺し合いと同じだ。

お前は8人に勝って、9人めに殺されたのだ」

これらの体験が元になり、木村政彦はこの言葉をかかげる。

3倍努力

これについて木村政彦本人はこう語っている。

「当時他のひとは1日3時間位練習していたが、6時間位すれば選手権は取れるだろうと思った。

ところが相手があいつを倒してやろうと6時間位やったら五分と五分になって、勝っても僥倖かまぐれにしかならない。

したがって3倍にすれば絶対に取れる」

その稽古内容は凄まじく、朝4時半に起きて塾生として掃除をして10時に警視庁へ行き1時間、拓大で3時間、夜の6時から講道館、そして深川の町道場で8時から11時まで乱取りをしたという。

めちゃくちゃすぎ、ドンダケ練習してるんだ、その数は100本にも及んだという、この時点でもう常人の1週間分以上稽古していると言っても過言ではないだろうだがその後家に帰って食事をして風呂に入ってから自重、バーベルを使ったウェイトトレーニングに入る。

腕立て伏せをまず1000回、はいおかしい、この時点でおかしい、誰か突っ込んでくれ。

続いて80キロをベンチプレスで600回――600回……600回……バーベルトレーニングの数じゃない、バーベルトレーニングの数じゃない、バーベルトレーニングの数じゃない……これだけで1時間位かかった、逆に1時間で終わらせられるのがすごい。

仕上げにうさぎ跳び1キロ、この人の体力の底はどこにあるのだろうか――

史上最強クラスのパワー

木村政彦のベンチプレスのマックスは250キロといい… 250キロかぁ、極真空手の創始者大山倍達も確か200キロ位と言うのを聞いたことがある気がしますから、それ以上かぁ…まぁこの有名な写真から見ても、人間離れというかむしろ別の人種に近いというかそんな感じしますね。

それによって得たパワーは、身長170センチ、体重85キロと言う、決して大柄ではない木村政彦の体躯をもって、障子の桟の両端を持って潰すことを可能とし、太い鉛の棒を簡単に曲げたと言う。

…鉛の棒、簡単にっていうか、鉛の棒って人間の力で曲がるんですね、曲がるんですね、なるほど、新人類ですかね…?

他にも師匠の牛島が木村にうちわで仰いでくれと頼むと、木村康彦はその場にあった畳を持ち上げそれを扇のように仰いで驚かせたり、乗り遅れた弟子のために走り始めた都電の後ろにある牽引用の取っ手を掴んで引っ張り、電車を停車位置に戻してしまったこともあると言う。

弟子たちはそれを見て唖然としたと言うが、もう、なんというか、うん、もうパワーだけで、パワーだけでも、もう何もありません…はい……。

さらには空手にも造詣が深く、柔道の握り、手首を強くするため朝の掃除と警視庁に行くまでの間に、巻藁突き左右1000本をもノルマとし、剛柔流においては師範代を務めるほどの腕だったと言う。

しかも戦後はアメリカへのヘビー級ボクサーとスパーリング中心のボクシング修練にまで勤めていたと言うからまさに武芸百般。

夜になると師の牛島にならいものすごく太いもみの木に帯を巻いて毎日1000回の打ち込みをし、同時にろうそくを後ろに置いて打ち込みによって消すということも行ったというが、木村政彦本人曰く

「毎日1000回もやるとすぐ切れちまうんだな、金がかかってしようがない」

それでロープを持ち出してやったと言う。

だんだん感覚が麻痺してきますねほんと(笑

ついにはその大木を1本枯らしてしまったと言うから恐ろしい話だ。

打ち込みを繰り返すうちに木村政彦の背中の皮はすりむけて治るを繰り返し、かかとのように分厚くなったと言う。

それらの練習を1日9時間、一説によると10時間を超えさらに365日行ったと言うから、現代の科学的トレーニングからしたら、目を剥くような所業と言えるだろう。

こんなことをしている間に夜中の2時ごろになっていて、しかしことここに及んでもなお、

「これですぐに寝てはダメだ、人間は寝たら死んだのと一緒だ、人が死んでも自分だけが生きている稽古しよう」

と、体をつねって朝の4時ごろまで寝ない訓練をし、朝の1番列車が通って、「あー夜が明けるなぁ」と思い、一睡もしないときの方が多かったと言う。

平均睡眠時間は驚きの3時間、布団の中で寝ないでいると、

「1日の稽古の状況が頭の中に浮かんでくる、大体100人位の人間と1日稽古したが次から次へと出てきて、あの時かけた技はこうで、どうだったか、というのが出てきて、技をかけた瞬間がストップモーションになる、それでこの技はいいとか悪いとかわかる」

と寝ている間にもうイメージトレーニングに明け暮れていたことが見てとれる。

…まぁだが、睡眠不足の分は授業中に寝ていたと言う話はさすがにご愛嬌と言って良いのではないだろうか(笑

命を賭けた勝負論

拡大時代の同級生だと言う塩田剛三が、

「あんたは授業中いつも寝とったなぁ、木村が我々のクラスにいたから誰も落第しなかった、ケツから押し上げてくれたから」

と語り、木村政彦自身も睡眠が短い秘訣を、「学校で寝てた」と笑っていたと言う。

まさに常軌を逸していると言っても過言ではない言葉だろう。

この頃を後木村政彦は、

「血の小便が出でもね、自分はどんなことしてでも、ここで生きていくんだ、この道をどんな事してても極めてやるんだとこういう根性を持ってやるって言う事は大切でしょうね、試合中のはこう、負けるためにあるもんじゃなくて、勝つためにあるんですよ。

だから手前ミソですけども、今の人とおよそ決断力が違うと、言う事ですね」

と語っている。

木村政彦はその凄まじい柔道界での戦績、他ジャンルへの転身、ブラジルの格闘技との激突、昭和のスターとの決闘、それらの数奇なる運命の方が語れることが多いが、私としてはそれらの根本となる稽古、決意、師弟関係、仲間との切磋琢磨、それらの方が彼の本質をついていると考える。

武道とは、日々の積み重ね、道を歩くこと、それそのものなのである。

試合は、その結果を顕すもの。

その彼を形作ったであろう日々の稽古、武道家としてのあり方、それが、彼を師事する者たちの礎になっている事は間違いないと、現在木村政彦を史上最強の柔道家とする風潮から、私は捉えたいと考えている。

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