キックの神様 藤原敏男 ルンピニー/ラジャ統一王者シープレイーを倒した奇跡の一撃!

2024年4月9日

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ラジャダムナン王者戴冠

1977年4月7日。

タイのラジャダムナンスタジアムで藤原敏男はライト級王者であるチャラポン・ソータイと対戦する。

ルンピニーの絶対王者に引き続き、ラジャダムナンの王者と戦うと言う、まさに超一流を迎えての激戦必死の組み合わせ。

勝てば王座挑戦権獲得できる、13年前の昭和39年に、師匠である黒崎健時が挑んだ、その復讐戦と銘打たれたその一戦。

藤原敏男、その時108戦98勝79KO8敗2分け。

7度目のタイトル遠征、最初は適当にあしらっていたワイクルーもすっかり堂に入っていた。

開始早々藤原敏男はいきなりの足払いで、現役のラジャダムナンチャンピオンを転ばしにかかってくる。

凄まじい肝の座り方だ。

今回藤原敏男は最初から、出入りを使わず、ステップを使わず、蹴りを放さず、重心をかすかに揺らしていた。

最初から、狙いはどう考えても、パンチ1本だった。

対するチャラポンもはタイ人にしては珍しくパンチを主体とする話だった。

自然リズムも間合いも、ピタリと合ってくる。

危険な雰囲気。

お互いジャブ、前蹴り、ローキックで、その時を待つ。

そしてそれは一瞬だった。

1分半、1ラウンド終了ラスト30秒、藤原敏男のチャラポンの左の前蹴りを掴み、一気に間合いを詰めて、ジャブから背中に回り込み、膝蹴りからの右の肘打ち、左の肘打ち、その、三連打。

チャラポンの右の目尻が切れる!

騒然となる場内。

異様な雰囲気のままにラウンドが開始され、距離をとって蹴りを放つチャラポンに対して、藤原敏男は中間距離からのパンチを放ちまくる。

それに対してチャラポンを首相撲からの猛烈な膝蹴りを連発する。

さらにコーナーに詰め込んでのパンチの連打も組み合わせて、まさに藤原敏男は人間サンドバックと化す。

まさに苦しい苦しい、第二ラウンド。

第3ラウンド、藤原敏男はとにかく首相撲を食わないようにパンチを出しながら必死に足を使い、相手の体にのしかかる。

そんな中、ラウンド終盤で右ストレートからのパンチのラッシュで、チャラポンが下がる場面すら見受けられた。

この粘り強さ、終盤の強さこそが、藤原のその強さそのものと言うだろう。

そして4ラウンド、スタミナが切れたチャンピオンに、首相撲を躱しながら藤原敏男の連続のアッパーが炸裂!

そして2分過ぎからはワンツー、さらにはムエタイ流の腕を狙ったものではなく、空手流の、腹を狙った左右のミドルキックが相手のスタミナをさらに奪う。

そして最終ラウンド、流すと言うよりはスタミナ切れで藤原敏男にもたれかかってくるチャラポンに対して、藤原敏男は右に左にステップワークしてパンチをつるべ打ちして対抗する。

まさに完勝といった内容で、藤原敏男は現役ラジャダムナンスタジアムの王者を相手に、堂々の勝利を果たした。

まさしく、日本人の夢、外国人の夢、キックボクサーの夢が、1つ叶った瞬間だった。

そして次の年の1978年3月8日、後楽園ホールでラジャダムナンスタジアムライト級王座をかけて、王者モンサワンルークチェンマイと対決。

モンサワンとはタイ語で、天国の魔術師の名を持つ。

55戦45勝30KO10敗。

対する藤原敏男は112戦102勝81KOを8敗2分け。

30歳にして、堂々たるタイ国ライト級6位として挑み、開始と同時に大声を上げて飛び込み、開始1分で藤原得意の足払いが炸裂。

今回のこの試合、チャラポン戦とは違い、長距離での蹴りの放ち合いとなった。

178センチの長身を誇るモンサワンの、その左ミドルキックになかなか中に入れない。

しかし2ラウンド後半から得意のアッパー、そして左ストレートが火を吹き、どんどん中に入っていってパンチの連打を叩き込む。

文左腕にはそれほどの首相撲も膝蹴りもないことを悟った藤原敏男は、相手のKOを受け止めてのパンチをどんどん繰り出していく。

3ラウンドの2分から、藤原敏男のアッパーが効いたようにすら見えた。

第4ラウンドは開始早々から連続のアッパーでモンサワンをまくし立てる。

そしてモンサワンがもたれかかり、もつれ合って、さらに相手が膝蹴りで飛び込んできたところを、つかんで、そのまま体を浴びせた!

モンサワンはそのまま昏倒!

藤原敏男は4ラウンドKO勝ちで、ついに日本人初、外国人初の、タイ国ラジャダムナンライト級チャンピオンを獲得した!

こうして世界に轟きわたる凄まじい快挙は、成し遂げられた。

首相撲の本場に首相撲で対抗しての、しかもカウントすら生ぬるいほどの完璧なるノックアウトなど、まさに歴史的な偉業だと言わざるを得ない。

ラジャダムナン1位及びルンピニー王者

そしてタイトル獲得から90日以内に本場のバンコクでタイトル戦を行わなければいけないと言うルールに従い、同年の6月7日に、シープレイー・ギャッソンポップとの戦いが行われた。

しかしこのシープレイ― は当時ラジャダムナンライト級1位と同時に、ルンピニースタジアムのチャンピオンでもあり、その格としては、あまりにもあまりにも高い壁だった。

現在世界を席巻している、史上最強のムエタイ選手の1人であるロッタン・ジットムアンノンが、那須川天心と戦った時がルンピニー・ラジャダムナンの両スタジアムの1位と言う触れ込みだったことからも、その恐ろしさは伺い知れると言うものだろう。

当時藤原敏男、113戦103勝82KO8敗2分け。

対するシープレイー、53戦49勝40KO2敗2分け。

正しくタイ国の国技ムエタイの王座を奪還せよと言う、そういった使命を託された、最強戦士だった。

賭け率はまさかの1対1。

敵チームを関わらず、まさしく珍しいまでの恐ろしい緊張感が会場を包んでいたのかもしれない。

シープレイーのその戦う姿を見て、私は背筋が凍った。

戦う彫像。

ムエタイの象徴。

そんなふうに、私には映った。

藤原敏男がおそらくは自信を持ったアッパーを中心に、ぐいぐいと間合いを詰めていっている。

しかしシープレイーは揺るがない。

2ラウンドまで、まさに一進一退。

3ラウンドの1分で、ついに藤原敏男の足払いが炸裂。

しかしシープレイ―がその逆襲とばかりに、左のローキックとミドルキックを連発。

さらにそこから首相撲で、怒涛の膝蹴り、さらに上から振り下ろす肘打ちの連打。

それで藤原が再び足払いをして返す。

さらにラウンド終盤も相手の周りをくるくると回るような独特な首相撲から膝蹴りで藤原を脅かす。

4ラウンド、シープレイ―はなぜか止まるが、藤原は3ラウンドの印象があるのか、攻めきれない。

やきもきした観客から、タオルが投げ込まれる、日本ではまずありえない光景だ。

最終ラウンド、やはりというか、藤原年は奥足が効いているように見受けられる。

そのためか、もしくは膝蹴りを警戒しているのか、藤原敏男は相手に抱きつく場面が増える。

そのため、最後までどうしても凌いでいる印象が拭えなかった。

残念ながら藤原敏男は、そのタイトルを、防衛することが叶わなかった。

しかし、まさしく日本最強の男として、タイ最強の男を相手に、堂々と立ち向かったその姿は、間違いなくそれを見た者たち大きな勇気を与えたことだろう。

事実として、113戦のキャリアを誇りながら、藤原敏男の戦いは未だ終わらない。

藤原敏男の伝説、その第二章が幕を開ける。

ベニーユキーデを倒したプライユット・シーソンポップ

そして藤原敏男はその半年後、1978年12月23日、後楽園ホール、当時リングの赤い蝶と呼ばれ、飛ぶ鳥を勢いで大変な人気を博し、日本のキックボクサーとしてスーパースターとなっていベニーユキーデに、強烈なローキックを効かせて、さらには首相撲からの膝蹴りで完璧にコントロールして勝利したプライユット・シーソンポップの、事実上の雪辱戦に挑むことになった。

ベニーユキーデでは当時圧倒的な強さで連勝街道を爆走しており、なんとその頃敗北したのは唯一のプライユットシーソンポップと言うから、その戦いの注目度は計り知れないものがあり、実際に制作された格闘技を大々的にプロモーションする旨の映画の中でもメインの1つとして取り上げられたほどだった。

しかもプライユットは、藤原敏男も当時2階級の体重が上の、ルンピニースタジアムウエルター級5位。

明らかな、それはハンディマッチと言えた。

開始直後から空手独特のインローキック。

そして得意であり強烈無比のアッパーがプライユットの顎を揺らす!

プライユットはベニーユキーデを効かせた強烈なローキックで前に出るが、藤原敏男はそれまでの経験により獲得した左右に回り込んでのアッパーとフックを連発して、まるでマタドールのようにその突進をさばいていく。

そして逆にローキックで相手をころばせる豪胆さ。

極真空手の創始者大山倍達の見つめているというのが、自らの弟子であった黒崎健時とその関係性や当時の情勢を思わせるワンシーンであると言える。

プライユットの狙いがローキックであることを見抜いた藤原敏男は、間合いを前後に巧みにコントロールし、その間合いを外して、パンチ及びクリンチに持ち込んで行く。

そしてフックフックフック、足払い!

これはまさしくパンチ対ローキックの間合いの勝負だった。

素晴らしい緊張感、駆け引き、最後は藤原ともやや足を効かされたが、経験を生かした戦略勝ちでの勝利を収めた。

そしてさらに直近とも言える1979年2月6日大阪府立体育館。

格闘技世界一決定戦と銘打たれた興行にて、WWF格闘技世界ヘビー級選手権試合であるアントニオ猪木VSミスターXのセミファイナルとして、藤原敏男はラジャダムナンスタジアムジュニアウェルター級王者を史上最年少で奪取し、第9回の極真空手の全日本選手権大会に出場、後にシュートボクシングで活躍し、キックボクシングチームSVG、シンサックビクトリージムの会長として前田憲作、新田明臣、藤原あらしなど育てたシンサック・ソーシリパンと戦う。

相変わらず得意の相手の高い廻し蹴りに合わせるインローキックでバランスを崩し、初っ端からぐいぐいプレッシャーをかけていく。

そしてローキック一発で効かせてしまう。

さらに空手独特の掛け蹴りまで見せる。

シンサックを追い込みに追い込み、ロープの外に放り投げようとまでした直後に、放たれたローキックからの対角線の左フック1発でシンサックがぐにゃりと崩れ落ち、そのまま二度と立ち上がる事はなかった。

まさしく凄みが出ている、明らかに強敵との戦いより、進化しているその姿が現れたと言えるだろう。

そして1979年、10月30日。

シープレイー・ガイソンポップと、その時ルンピニーとラジャダムナンライト級の統一王者となっていた時の最強ムエタイ選手と、黒崎健時が起こした新格闘術の世界ライト級王座をかけて、藤原敏男はリベンジマッチを迎えることとなる。

新格闘術世界5大チャンピオン決定戦と銘打たれたそのイベントは、日本武道館で華々しく開催された。

4つのタイトルマッチの後、開始されたその直後、藤原敏男はいきなりタックルに近いクリンチでシープレイをリング外に突き飛ばす。

この試合の注目点。

それは、藤原敏男が前回やられた、奥足へのローキックをさばききれるか否かだった。

日本武道館の決戦

やはりというかパンチを打ちながら、すぐに中途半端な間合いを外して、すぐにぴったりとくっついてリングにもたれかかる藤原敏男。

ある意味では珍しい、日本人である藤原敏男の方が首相撲にもっていく、珍しい展開が続く。

奥足ローキックもしくは膝蹴りに持っていきたいシープレイ―は、しかし藤原敏男の巧みなパンチトローキックに阻まれ、逆に転ばされてしまう。

そして中途半端な膝蹴りに行ったところに、藤原敏男得意のアッパーが炸裂!

シープレイ―のローキックが効き始めるが、藤原敏男も対抗してその何倍もの手数のパンチを当てていく。

そして途中からシープレイ―が間合いの違いから膝蹴りに切り替えたところで、それに合わせるような左ストレートが一閃!

あのシープレイ―が、倒れた!

ダウンにこそならなかったが効いているところに、左右のストレート、そしてフックをぶちこみ、ここぞとばかりに追い込んでいく。

そして逆襲とばかりに首相撲からの膝蹴りのラッシュが来たところに、ガードで固まるのではなく、小刻みに動きながらのパンチの連打を叩き込む。

これこそが、ムエタイで鍛え抜かれた匠の業、藤原敏男の生き様そのものだった。

そして完全に腹が効いてしまってもなお気持ちは折れず、一瞬の左ハイキックからの右ストレート、そして体を沈み込ませての右アッパー、左右のフックの連打からのさらに右アッパー、それによりダメージを蓄積させる。

まさに藤原敏男はこの試合、これまで蓄積したすべての経験、技術、それを吐き出して戦っていた。

そして7ラウンド、左ハイから左ジャブで相手を引き寄せて、右に回って回ってタイミングと距離を測って、そして十分にためを使った狙いすました右フック気味のストレートが、シープレーの顎を完璧にとらえた。

シープレイ―は大木が薙ぎ倒されるかのように、横に崩れ落ち、そして目の焦点が合わず、二度と立ち上がることが叶わなかった。

奇跡を見た、私はその瞬間、そのように感じた。

それぐらい、その一撃は、ありとあらゆる状況や前評判や、歴史を覆すほどの、それらを超えた神がかった一撃だった。

藤原敏男の、その存在そのものをかけたかのような一撃だった。

その間にも1979年6月に、その4ヶ月前までルンピニーとラジャダムナン両スタジアムのジュニアライト級の統一チャンピオンであったという話の、ビラチャート・ソンデンと戦う。

ビラチャート独特の上段前蹴り、そしてぐいぐいと前に来る戦いに、藤原歳は多少面食らっているように見受けられた。

相変わらずキレの良い足払いを返すが、ヴィラチャートの被弾を恐れないパンチと、そして膝蹴り、その場に振り下ろす連続の肘打ちで、藤原敏男の後頭部が切れ、さらにバッティングによるダメージも加えられて、それを判断したセコンドはタオルを投入して、そこで藤原敏男がTKO負けとなった。

藤原当初にしては珍しい不完全燃焼での敗北だったが、その2ヵ月後の1979年8月28日に全日本キックの王者である長江国政と戦い、お互いマーシャルアーツの世界チャンピオンも保持する二冠王として相対したが、ほとんど右ストレートの一撃で下した。

さらには1982年の1月7日にワールドキックボクシングで1階上の、当時強豪と言われた富山勝治も破っている、仮想ベニーユキーデという話も噂されたマニージョンストンと対戦し、早々にローキックを効かせて、1ラウンドの2分で強烈なハイキックで階級差をものともせずにリングの端まで吹き飛ばし、さらに立て続けのハイキックで2度目のダウンを取り、2ラウンドもローキックとストレートで責め立ててダウンを量産、しかしフリーノックダウンだから倒れても倒れても終わらない。

最後は多分20回位ダウンしたところで、藤原敏男が突き飛ばしたところでタオルが投入されて、藤原敏男の4ラウンドKO勝ちとなったりした。

その翌年の1983年2月に引退、最終戦績を141戦126勝99KO13敗2分けとし、その後1997年に藤原スポーツジムを設立し、小林聡や山本真弘などの素晴らしい名キックボクサーを擁し、さらにはジャパンマーシャルアーツディレクターの理事長に就任したりした。

特に山本真弘は、新極真会長崎支部長の山田政彦の愛弟子であり、そういった流れも自らの師匠が極真空手大山倍達の弟子である黒崎達時いったところから、ルーツがあるとも言えるのかもしれない。

日本にキックの土壌を築き上げ、打倒ムエタイの道筋を作り、現在の格闘技の隆盛の一端を担った偉大なるキックボクサー、藤原敏男。

キックの神様とも称される、その偉大なる魂は引き継がれ、そして忘れることなく、語り継がれるべきものだろうと私は確信している。

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