キックの荒鷲 藤原敏男 全日本キック西城正三にも勝利し一時代を築いた足跡!
偉大なる和製ムエタイ戦士
日本においてムエタイの歴史を切り開いたとも言える偉大なる選手、藤原敏男。
彼の足跡は多大でありキックの荒鷲として一時代を築き、全日本キックボクシング協会の初代王者決定トーナメントで優勝し、初代ライト級王座を獲得し、新格闘術に転向するまで防衛し続け、元プロボクシング世界フェザー級王者西城正三と対決し勝利を収め、ムエタイの現役王者をノンタイトル戦で現地バンコクでKO勝ちなどを何度も勝利し、梶原一輝総指揮の映画にも出演し、外国人として初めてのムエタイの頂点ラジャダムナン王者となったりました。
総試合数141戦126勝99KO13敗2分け。
どんなふうに戦えばここまでの凄まじい成績を収められるのか想像だにつかない。
1つは彼の師匠である格闘の鬼、黒崎健時の、常識を無視した凄まじいトレーニング、試合のスケジュール、条件、それらをただ押忍の一言で飲み込み、無理を通して道理とした、そういった過酷な日々、信念、そういったものが結んだ結果とも言えるだろう。
通常の練習だけ取り上げても、毎日1時間ぶっ続けでサンドバックを蹴り続けたり、大きなタイヤを素手で蹴ったり、宇都宮から東京まで100キロメートルの道を走るなど、超人的な鍛錬を積み重ねていたという。
さらに黒崎健時の命により手を使ってはならないと言う指示で、蹴りだけの試合を行ったり、高速道路の料金所でいきなりとんでもない無茶難題を押し付けられたりと、常識スレスレというか、正直効いていると法律に触れるレベルのトップもないむちゃぶりも繰り返されていたが、ただただ従い、そう言って修羅場、初体験、そういった場所でのくそ度胸や、とっさの判断が身に付いていったのかもしれない。
またあるときは左脛を28針縫う手術をし、45日間も入院をして引退をささやかれたが、退院してわずか3日後に皇居マラソンをやりずっと寝たきりだったと言うのに5キロメートルを23分で走ると言う常識では考えられない離れ業を見せたりした。
さらに彼の逸話として、路上の喧嘩でも伝説的なものをいくつも残しており、銀座で言い争いになって6人倒したとか、新宿で10人倒したなど、枚挙に暇がなく、大学の柔道部をローキックから始まってめった打ちにして最後はハイキックで仕留めたり、警視庁で暴れたり、刑事の机の上に乗っかったり、まぁ豪放磊落の一言では済ませられないレベルともいえる。
ある人は彼を、キックの鉄人と呼んでいた。
またある人は、彼をキックの神様とも呼んでいた。
まさに現在のムエタイ、キックボクシング、その日本の土壌を作り上げた第一人者と言えるだろう。
しかし果たして彼は、どのような戦いでそのような戦績をつくりあげたのか?
私個人的には確かにそのような話を効くのは大変興味深いのだが、やはり実際の、その試合、組み立て、技術、それで判断したいと思うところがあるのは実際だったりする。
事実として、日本人がムエタイに対抗すると言うのは、長い歴史の中でも、非常に稀だと言える。
藤原敏男がラジャダムナンのライト級王者になったのが、1978年。
次の日本人王者である小笠原仁がJrミドル級王者になったのが、2000年となっている。
その差、驚きの22年間。
次の武田幸三が1ヵ月後にウェルター級王者になっているが、石井大樹がスーパーライト級王者になるのが、さらに11年後。
現在、ラジャダムナン王者になっている日本人と言うのは、現在2021年8月5日までで、わずか29人。
それもK-1などを始めとして、非常に多くの日本人が効くと言うものになる親しみ、そして海外の情報などをつかみ、対策がなされ、その上でその下地ができてからというのが実際だ。
1978年、その時ラジャダムナン王者に輝くと言うことが、どれだけの偉業であり、難しいことか――
そこで私は、今回そこに焦点を当てて、藤原敏男のムエタイ攻略、その戦術的な面にスポットライトを当てて話を進めていきたいと思う。
まず最初に見ていきたいのか、1973年の3月29日に行われた、元プロボクシング世界フェザー級王者西城正三との戦いだ。
ボクシング世界フェザー級王者西城正三
最初は日本人として初の海外での世界王座奪取と言う偉業を成し遂げており、さらにはキック転向後、16試合15勝1引き分け13KOと連勝街道を突っ走っていて、マスコミも世紀の1戦と煽り立てていたと言う。
藤原敏男は前後左右に細く動き、小さくフェイントを入れて揺さぶりをかけるのに対して、西城はやはりまっすぐ行って、正々堂々パンチで勝負といったところだった。
すぐさま藤原としてはその首をがっちり捉えて、首相撲にもっていく。
そして1分過ぎ、強烈な藤原敏男の左ハイキックが顔面をかすめ、これで西城は前に出にくくなる。
そして2分で、初めて藤原敏男がローキックでを放ったが、元ボクサー相手にここまでローキックを使わなかったと言うことが個人的には思うところがある。
話によると早いラウンドで倒すとまぐれと言われるから3ラウンドでGOだ、と師匠の黒崎氏から言われていたと言う。
そして一ラウンドの終盤ローキックmミドルキック、膝蹴りと、キックボクシングのフルセットを叩き込む。
2ラウンドさらに西城はおとなしくなり、むしろ中盤から藤原敏男のジャブが的確に西城の顔面をとらえることである。
さらにはローキックも効き始める。
ここまでほとんど、藤原敏男の一方的な展開だ。
それを悟ったのか西城は3ラウンド直後からがむしゃらに前に出てくる、そこに藤原敏男はハイキック、前蹴り、そして首相撲で対抗する。
さすがにボクシング世界王者にまともにパンチで戦うと言う愚は犯さない。
そして相手が止まったところで効いていたローキック、さらにハイキックでバランスを崩してからの右ストレートと、藤原敏男が一気呵成に責め立てようとしたところで、まさかのタオル投入。
多少消化不良気味の違いはあるが、ここで藤原敏男の勝利が確定した。
本場アメリカでタイトルを取ったパンチのスペシャリストとも言える相手に、見事な試合運びを見せた。
そして亀になってローキックを蹴るのではなく、相手の土俵でも勝負すると言う気持ちの強さ、ある意味ではむらっけの強さも垣間見えた1戦と言えるだろう。
続いて検証したいのはその約1年後、1974年6月12日、ラジャダムナンスタジアムで行われた、ムンチョン・ジラバン戦。
ラジャダムナンスタジアム2位という、紛れもなき強豪中の強豪。
ラジャダムナンスタジアム2位ムンチョン・ジラバン
試合前のワイクルー、藤原敏男は早々に蹴り上げたがレフェリーからのワイクーをもっとやれと言う指示に、ごまかして踊ってやったと言うからその辺にも彼の豪快さが表れていると言える。
彼の頭の中は、その時点で日本初のムエタイ王座、それしかなかったのかもしれない。
開始直後、ムンチョンいきなりのハイキックで藤原敏男は倒されてしまう。
気持ちがはやった末なのか、これこそがムエタイの洗礼とも言えるものか――
視界の外から後頭部を狙ったものだったため、ダメージはそれほどないようだった
少しずつ間合いを詰めて、小さく細く手数を積み重ねる藤原敏男に対して、ムンチョンはムエタイの定跡通りどっしり構えて、時折強烈なミドルキックを返す。
2ラウンドまではほぼ同じ展開が続き、3ラウンドからムンチョンが前に出始め、強烈な左ミドルキックを連発し始める。
それに呼応するように、藤原年もミドル、ハイキックを連発してムンチョンを脅かす。
そこからローキック、パンチにつなげていく。
4ラウンド、ムンチョンのミドルキックの間合いをつかんだ藤原敏男は、それを腕で受けることをせずに、前後のステップワークで躱し、次の瞬間には前に入ってパンチを繰り出すと言う戦法に蹴り替える。
最終ラウンド、ムエタイの定跡通り流しに入ったムンチョンとは対照的に、藤原敏男は前後のステップワークを使いどんどん前に出てきく。
しかし追撃が続かない、ムンチョンの巧みな首相撲により、完全に勢いが封鎖されてしまう。
しかし藤原敏男の闘志に押されたのか、地元の意地か、ムンチョンも最後は凄まじいパンチの打ち合いに応じることになるが、結局最後までお互い決定的なダメージとなるような攻撃は炸裂する事はなかった。
藤原敏男はこの時勝ったと感じたそうだが、未だその時にはムエタイの独特な採点基準を知る事はなかったからそれは当然と言えば当然だろう。
敵地にて、堂々のドロー。
本場が、藤原敏男のその実力を認めた瞬間だった。
その負けん気の強さ、ボクシングの元世界チャンピオンだろうが、本番ムエタイの一流どころダウンが、堂々と前に出て渡り合える確かな技術と、そしてパワー。
それにより実力を世間へと証明して、未だ見ぬムエタイ打倒への、その足がかりを得た形となった藤原敏男。
ここから、彼の躍進が始まった。
全日本キックvs日本キック協会
そして驚くべきことにそのわずか1ヵ月後。
26歳のその時に、ちょうど記念すべき80戦目に組まれた、ラジャダムナンの6位に外人として初めて登録された1974年、7月26日に行われた、全日本キックVS日本キック協会。
これだけの激闘を繰り広げたほとんど直後と言っていいその時期に開催された、日本系×全日本系交流対決、その大将戦に用意された、中村省三との試合だ。
この時期、最初に述べた藤原敏男VS西城正三のボクシングVSキックボクシング頂上対決に始まり、さらに同年沢村忠が野球の三冠王の王貞治を押しのけてプロスポーツ大賞受賞したり、まさにキックが燃え盛った時代であり、そういった経緯からこの交流マッチは大変の注目を集めたと言う。
以後二度とこの両団体による対決は行われていなかったと言うその内容は、まさかの日本系の4戦全勝と言う大差をつける戦績の中、藤原敏男にそのバトンが回ってくることとなった。
まさにキックボクシングを背負っている藤原敏男が勝利して一矢むくいたいと言うその状況の中、対戦相手の中村省三は藤原敏男よりも10センチも身長が高く長いリーチを保有しており、ボクシング東洋ウェルター級11度の龍反町に連日ワンツーマン特訓を受けて、ここまで9連勝と大変な波に乗っており、1発への可能性を秘めてリングに上がったと言う。
しかし対する藤原敏男は、いよいよ沢村忠と戦えると考えていたところ、沢村はTBSのメインイベンターだからと言うことで出してもらえず代理扱いとなった相手に、
「9連勝していて、この相手をあてれば藤原敏男もやばいだろう」
と思われていると予想し、それで頭にきて、試合開始早々ノーガードで向かい、打ってこい蹴ってこいと馬鹿にして、怒ったふりをして、それによって自由奔放に思った通りに動ける状態を作り上げたと言う。
その言葉通り完全に両手を伸ばし、だらりと下げ、首を振って、相手を誘うような、むしろ威嚇するような、独特な雰囲気を作り上げる藤原敏男。
1分までほとんど手を出さず、右のローキックいっぱつで中村の足を効かせてしまった。
ハッキリと格が違う。
右ストレートを軽くもらったにもかかわらず、ラウンド終了後ニヤリと笑う余裕さえある。
3ラウンド、ほとんどノーガードの前に出て、左右のローキックを連発して、足を痛めつける藤原敏男。
ほとんど極真空手の試合のようだった。
そして4ラウンドは今度は左右のミドルキックをつるべ打ち。
……この人、ラウンドごとに技縛って戦ってんじゃないかと疑ってしまう感じだった(笑
そして4ラウンドまでありとあらゆる場所で責め立て、いじめていたら、黒崎健時からの指示が飛んできて、
「かわいそうだから1発で倒してやれ」
鬼の伝令にどうしようかと考え、一転して重心が落ちて無駄打ちをしない獲物を狩る狩人のような様相に変わり、ジャブを連発して見学し、多彩な技で翻弄してから、ミドルキックで意識を横に向けて、ジャブで十分にタイミングを計ってからの
強烈な右アッパー一閃。
中村省三は交通事故にあったような衝撃とともにひっくり返り、まさに指示通りの一撃必殺の妙技を見せつけることとなった。
そして1976年、藤原敏男は敵地ラジャダムナンスタジアムで 当時6年間負けなしでルンビニースタジアムチャンピオンを守り、帝王と呼ばれていたシリモンコン・ルークシリパット戦うことになる。
ムエタイの帝王シリモンコン・ルークシリパット
90戦65勝40KO10敗15分け。
さらにデビュー2戦目で対戦相手を殺してしまうという不慮の事故が起こり、その子供が中学卒業まで面倒を見たと言う日本人としては考えられないようなエピソードを持っていたりする。
対して藤原敏男は5年間全日本キック王座を守っていたと言う。
この時点で94戦86勝67KO6敗2分け。
その当時の賭け率で、最初は4対7でシリモンコン有利の賭け率だったそうだが、直前でシリモンコンがワンポンド体重をオーバーしたと言う話が伝わると、一気に5対4と藤原敏男が逆転したと言うから、その事情を鑑みたとしても当時の彼に対する期待感の高さを表していると言える。
試合が始まり、さすがに藤原敏男も慎重に、じっくりと間合いを詰めていく。
開始早々、ミドルキックにローを合わせる空手独特のテクニックで、シリモンコンを狂わせる藤原敏男。
シリモンコンは左ストレート、膝蹴り、そして藤原敏男は廻し蹴りの狙いといったところだろうか。
本当に、恐ろしいまで静かな一戦だった。
第二ラウンド、開始少し経ってから、藤原敏男はペースを変えてきた。
距離をとってからカードを下げて、体を振って、挑発気味に、揺さぶりをかける。
そして一気に飛び込んでからの、中村を倒した右アッパーを見せつける。
しかし基本的にはオーソドックスで、ハイキックを見せればハイキック、前蹴りを見せれば前蹴り、ローキックを見せられればローキックを返すと言うムエタイの典型的な展開。
3ラウンド、接近戦に勝機を見出した藤原敏男は間合いを詰めて、右アッパー、右ストレート、ローキックで攻勢をかけていく。
それにシリモンコンは左ミドルキックを連発して勢いを止めにかかる。
ここで初めて藤原敏男が優勢になった雰囲気が流れた。
4ラウンド、1分半で藤原敏男がハイキックからのストレート、アッパーのラッシュを見せる。
しかしラウンド通してシリモンコンの重厚な左ミドルが威力を発揮した印象が拭えなかった。
最終ラウンド、一気呵成に行きたい藤原敏男だが、シリモンコンの絶妙な間合い、タイミング、卓越した左ミドルに、それに合わせて放つ左ストレートに、完全に試合をコントロールされてしまう。
惜しい。
非常に惜しい、展開だった。
3ラウンドまでだったら、藤原敏男の勝ちとしても良かっただろう。
普通のムエタイ戦士だったら、最終ラウンドを流していただろうから、やはり勝利していた可能性は十分にあったと言えるかもしれない。
それだけやはり、帝王シリモンコンは、頭1つ飛び抜けた存在だったと言うことだろう。
そして、この敗戦を糧に、ついに藤原敏男は、未だかつて外国人が到達したことのない、ムエタイの伝統、伝説の扉を、こじ開けることになる。
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