五十九話「乾坤一擲」

2020年5月9日

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 夕人が動いた。

 今まで以上の、暴風のような左ミドルの嵐が叩き込まれる。
 ごつ、ごつ、ごつと痛々しく脛が尺骨を叩きのめし、天寺の体が力なく押し退けられていく。
 会場に悲痛なため息が漏れた。
 もう、誰もこれ以上見ていたくなかった。

 がす、と一瞬の隙をつき、天寺の前蹴りが夕人の鳩尾に食い込む。

「…………っ!」

 夕人の顔が、鬼の形相に変わる。

 高速の右ローが、天寺の左足の太腿で凄まじい音を立てた。
 天寺が体勢を崩し、それを皮きりに夕人が跳び膝で飛び込んだ。

 その、刹那。



 天寺の括られた後ろ髪が、宙を舞った。



 背を向けた、と観客は思った。
 あの建末を葬った飛び膝蹴りの前に、天寺が怖気づいたのだと。

 だが、次の瞬間その右後方に、肌色の物体が現れるのが見えた。
 それを見て疑問符が湧き、次の瞬間それが夕人のアゴに急接近してくるのを見て、誰かもが理解した。

 額と額がつくかと思われるほど肉薄した距離で、天寺は右足の踵を背面越しに、夕人のアゴに飛ばしたのだ。
 体勢が崩れたかのように見えたのは、このための前準備だった。
 天寺は思う。

 ――狙っていた。

 賭けて、いた。

 これだけが唯一出来る、最初からたった一つの勝てる可能性だった。
 最後に頼れるのは、何千本、何万本と蹴り続けた前蹴りと、この"後ろ回し蹴り"だけだった。

 遥に言われた時、この蹴りを思い出した。
 前蹴りは使いすぎて、警戒されているだろう。
 あまつさえ、腹筋に跳ね返された。

 だが、伏線に使えばどうだ?

 今まで一本をとってきた蹴りを伏線に使う。
 師範の言葉が、脳裏に蘇った。

『お前の上段の蹴りは、確かに目を見張るものがある。キレもタイミングも、申し分ない。当たれば同じ歳どころのやつならまず間違いなく倒れるだろう。だが、どんなに伏線を引いても、その伏線に威力がなければ話にならん。伏線ではいかんのだ。それで、

 倒せなければ、相手は見向きもせん』
 ――橘師範。

 乾坤一擲。

 思いの丈を込めて、渾身の力を、この踵に込めた。

 ――手応えが、来た。
 肩越しに振り返ると、踵が、奴の頬に深く食い込んでいた。

 歓喜が胸に沸き起こった。
 やった。
 勝った。
 このまま振り切れば、オレの勝――瞬間。

 天寺の体は、後方に吹き飛ばされた。





 ――――な……
 天寺は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 体が夕人に背を向けて、宙を舞う。
 背中に衝撃を感じ、当たっていた踵が離れていく。
 その後方で、夕人が――こちらに膝を突き出した態勢で、笑っていた。

 その瞬間、理解した。

 あの一瞬。
 膝蹴りに合わせて、ゼロ距離から後ろ回しを放ち、見事夕人の頬に命中させた天寺は――そのまま膝蹴りの勢いに押されて、体ごと吹き飛ばされたのだ。

 通常顔に何かをもらえば恐怖から、体を引いてしまう。
 それをこの相手は、むしろ押してきたのだ。
 そんな相手は今までいなかった。

 その事実が、天寺の頭から判断力を奪った。

「……ちっ!」

 床に転がり素早く体勢を立て直して、相手を睨みつける。
 悔しさが、全身を侵していた。

 全てが計算どおりにいった。華麗に勝てたと思った。
 それが、こんなイレギュラーが最後に待ってただなんて……!

 残り時間はもう、いくらもない。
 このまま判定では負けるのは、わかりきっていた。

 焦った。

 ……もう一度!

 膝を溜めて、一気に間合いに跳び込んだ。



 そのアゴに、真下から夕人の飛び膝蹴りがめり込んだ。



「――――」

 天井を、仰ぎ見た。
 八つのスポットライトが、眩しかった。
 まるで空を飛べるような浮遊感が、心地よかった。

 ガードを忘れていた。
 相手の攻撃を忘れていた。
 ただ突っ込んだだけだった。
 その頭にも体にも、決定的な一撃をもらったという実感はないまま。

 その一撃で、天寺の意識は消え去った。
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