二十三話「憧れ」

2021年11月7日

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目次

本編

 朱鳥の思考は、停止していた。

「――――」

 天寺が、咆哮している。
 腹を抱えて、板張りの床を転げまわり、口を開け放ち、目を見開いて、声の限りに叫んでいる。

 誰も、動かない。
 言葉を発しない。
 ただ、のたうち回る天寺を呆けたように眺めていた。

 その心に宿るものを、朱鳥はうまく表現できなかった。

 恐怖、とは違った。
 嫌悪ともまた違う。

 人が人の暴力により、のたうち回っているのだ。
 今までの自分だったら、怒りすら湧く場面のはず。

 それを、自分はなぜ――

 どれくらい経ったのか、天寺にはわからなかった。

「……ひゅ……ひゅ」

 気付くと天寺は、誰かに両肩を掴まれていた。
 背を、膝らしきもので押されている感触がある。
 視界にかかった霞が薄れるにつれ、自分を見下ろす人影があることに気づいた。

 視線を上げると、そこには短髪で引き締まった筋肉を持つ男が、空手着姿の堅い表情で立っていた。

 一瞬、息が止まった。

「ひゅ……ひゅ、ひゅ」

 気づくと、自分の体は小刻みに震えていた。
 全身に冷たい汗が敷き詰められている。
 喉がからからに渇いていて、そこからひゅっ、ひゅっ、と情けない息が一定のリズムで漏れていた。

 すべては、腹の痛みのせいだった。

「ひゅ、ひゅ……ひゅぅ……」

 ちょっとやそっとの痛さじゃない。
 痛みの元となっている肝臓に血液が通るたびズクン、ズクン、と吐き出しそうなほどの鈍痛が脳髄にまで響いてくる。

 そこまできてやっと、天寺は――自分が、これ以上ないほどに完膚なく一本負けを喫したのだと、理解した。

 弁解の余地もない。
 空手ルールの三秒どころか、ボクシングのテンカウントすら生温い。
 何しろ自分がどれだけの間倒れていたのかすら、記憶がないのだ。

 負けた。

 この西東京支部代表――都大会王者として戦い、外から来た長崎県王者に、完敗した。

 道場生のみんなには申し訳ないと思った。
 師範の期待に応えられなくて、残念だとも思った。
 クラスメイトの二人にはみっともないところを見せてしまって恥ずかしいとも思った。

 だけど不思議なくらい、悔しさはなかった。
 屈辱感もなければ、落胆さえない。

 あったのは、驚嘆。
 そして、感嘆。

 そう。

 自分はただ、憧れた。
 凄まじい闘志と身体能力に、自分を上回る技。
 それら全てを総合した、その強さ。

 そして勝利してなお、眉一つ動かさず表情すら変えない、厳かな態度。

 その、在り方に。

 そう。
 オレはこの瞬間、この男に――

「押忍」

 その男はただ十字を切り、礼をした。
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続きはこちらへ! → 第参章「胎動」

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