“ケンカ空手の祖”南本一郎 大山道場初代師範代!地上最強、空手バカ一代の礎築いた功績を知るべし!
日大芸術学部空手部主将
南本一郎。
日大芸術学部で剛柔流空手を学び、主将を務め、その後大山倍達と知り合い、大山道場初代師範代となり、組み手を中心とした実戦的稽古を導入したといわれる空手家である。
大山倍達が語る
大山道場の門下生で、1番印象に残っているのは有明省吾。
次が安田英治と石橋正史。
それに南本、石渡というのも強かった。
と語るその出会いは浅草の剛柔流本部、山口剛玄の集まりでの事といい、その時南本一郎は二段で、大山倍達は30を過ぎた年齢でゲストとして来ていたといい、その3つの指で10円玉を捻じ曲げたという。
それに南本一郎は、
こりゃすごい指の力だな。
驚いたといい、その後何かの機会で再会した折に、空手界では異端視されていた大山倍達が外部からの圧力が厳しくなったため南本一郎を呼び、
いやぁー、このままじゃダメだから、俺も一派をこしらえるよ。
南本くん、今度道場を始めたいんだが、指導員がいないから手伝ってくれないか。
という話になり、承諾。
立教大裏の元バレエ教室に、空手部の主将として部員を連れていき、その頃の大山道場にいたという10人ぐらいの一般道場生たちと一緒に指導したという。
そこで教えた基本と型は自身も剛柔流出身ということで剛柔流だという話で、非常に近い距離で打ち合うもので、さらには組み手も寸止めといっても平手で実際に当てていたという。
拳を握って当てたら怪我をするため寸止め、しかしそれだと実際のところがわからない、それで平手ならそんなに怪我もしないし、額とか急所じゃないところを叩いてみたらどうだろうか、となり、先輩相手でも遠慮しないと語る南本一郎が始めたという。
組手至上主義
その頃は自身でも若くて性格がきつかったと語り、車にひかれても死ぬ気がしなかったといい、型とか基本とかいうことよりも組み手を主に教え、
型が上手だったり、基本が上手だったりしても実戦で弱けりゃあ何の意味もないんだ。
という考え方のもと、基本と型が一通りざっと終わったらすぐ組み手して、それに時間を割いたという。
力関係で発言権も変わるため平手で当てる時も遠慮せず、あ、こいつは強いなという印象与えておかないと、と。
そのため南本一郎が大山道場に入ってから道場の雰囲気ががらりと変わり、実戦的な稽古になったといい、さらには組合からの肘、裏拳、そういったものが使えない時に頭突き、投げもあり、頭同士がぶつかって8針ぐらい縫ったこともあったという。
実際その組み手好きは知られていたといい、白帯が基本稽古、型稽古などを終えて組み手の時間になると現れたという話もあり、
南本さんが道場に来るようになってから大きな変化がありました。
この人は向こうっ気の強い人でして、羽目板まで相手を追い詰めても攻撃を止めないんです。
普通、その頃の組み手というと、羽目板まで追い込むと追い込まれたほうがまいったといって、中央まで戻って再開されるものでした。
でも、この人は決して手を緩めない。
それは何故かというと、南本さんは、
お前らはいつか俺を追い抜く。
でも、追い抜かれる前に徹底的にやっておけば、半年で抜かれるところが1年になる。
という考え方の持ち主だったという話で、目白時代には相手を蹴落としてまで強くなろうという気持ちは誰も持っていなかったというが、それを持ち込んだのが南本一郎といい、
負けてはいけないんだ。
という闘争心を道場生に植え付けたという。
そんな南本一郎の指導として、
野球でいえばピッチャーの投げるボールに伸びるボールと棒玉があるように、伸びる拳を使え。
途中まではスローで来ても相手の目前で目にも止まらない速さになる、伸びのある拳を使え。
足が上がったら、と思ったら、既に相手の体に食い込んでいなくてはいかん。
というものがあり、同じ学校の空手部であり、後に俳優として活躍する名人として知られる石橋雅史ともしょっちゅう組み手をやっていたといい、ケンカ十段、予告前蹴りで知られる安田英治とも浅草の山口先生の道場で一緒にやっていたので、大山道場に入ってからもこれまたしょっちゅう組み手をしていたという。
大山道場初代師範代
安田英治曰く、
彼は独特の構えをしていて、それがかっこよかった。
それを見て白帯の道場生で真似している人も結構いましたよ。
組み手なんかでも性格の激しさが出ていましたね。
とことんまで攻め込んでいて、相手が羽目板にドーンとたたきつけられてもまだ攻めていく。
だから、練習の時はみんな気の荒い人だなというイメージを持ったのだと思います。
でも、その後の彼を見ると、僕は性格的に弱さを持った人ではなかったかと思う。
比較的に小柄であったし、負けるということを恐れていたのではないかな。
タイプでいえば、守りに入るのではなく攻撃的なタイプでした。
強いというよりも巧いという組み手でしたね。
そして南本一郎は大山倍達とも時々組み手をしていたというが、その際大山倍達は
南本とやる時を気をつけなくちゃ!
といっていたと語り、その時の組み手のことを、
大山先生は拓大で、松濤流をやっていたから、接近戦の剛柔流と違って間合いが遠かったですね。
それでやりづらい点もありましたが、結構やりましたよ。
やはり力は強いですよね。
ただ10円玉を曲げたり動かないものを何かするのと違って、動いている人間は相手にするときは、よほどの実力の差がないと、圧倒することは難しいですね。
それに大山総裁と組み手をしても圧倒される事はなかったと聞かれると、
いやー、圧倒されたんだろうけどね。
と笑っていたという話。
佐渡ヶ島に演舞会に行ったときには大山倍達が自身の拳をハンマーで叩かせる場面も目撃し、
大山先生の拳というのは、拳のつくところの瘤がすごく盛り上がってたんですよ。
で、大山先生は、
ここに靴の裏につける鋲をつけて牛を叩いたら、牛が倒れるかな?
っていうわけですよ笑
すげえこというなぁと思いましたね。
さらには明治の学生などが来て、稽古をつけてくれといってきた際も、大山倍達に、
君、相手してあげなさい。
その裏の意味は推して知るべしと。
石橋雅史へと繋ぐ
実際の道場破りはそんなに来ていないと良い、日大芸術学部空手部と二足のわらじを履いての指導は2年間に及び、他にも三峯神社や大山倍達の自宅にもよく伺ったといい、極真会になってからは仕事があったため、
先生、悪いけど。
と断りを入れてやめ、日暮里に住んでいる時一度夜中に大山倍達が弟子3人を連れて、
戻ってくれ。
と来たというが、南本一郎の気持ちはもう変わらなかったという。
当時私も若かったしね。
20代で、仕事もありましたし。
それでもしばらくは仕事が5時に終わると大山道場に通ってたんですけど、そうそう通えなくなってきて、先輩の石橋さんに自分の代わりに手伝ってくれませんかと後をお願いしたという。
給料も少しは出るんじゃないかなとね。
ただ、大山さんも当時はまさに貧乏な時代でしたからね。
それ約束が果たされたかどうかは知りません笑
その後大山倍達が田園コロシアムで牛と戦う際に審判団の中にいたり、初代の日大芸術学部空手部OB会会長となり、日大の監督も先輩を追い越して1、2年務め、剛柔流七段となったという。
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