極真第1回全日本大会 UFC1越え!?山崎照朝、添野義二、長谷川一幸がボクサー、柔道、ムエタイに他流派を迎え撃った漫画と現実のクロスオーバー夢舞台!
キックボクシングからの系譜
極真空手の記念すべき、第一回全日本空手道選手権大会。
直接打撃制格闘技の祖ともいえる、その始まりともいえる大会。
しかし当時はテレビ放映などもなく、映像記録として残されたものはほとんど流通しておらず、その情報も非常に制限されたものだった。
1969年9月20日に開催されたこの大会にこぎつけるまでは大変な紆余曲折があったとされる。
それより前、1964年に戦後復興の旗印とされた東京オリンピックが開催されており、同年会館としては野口修との協力により実現した、大山空手VSムエタイ3対3マッチで2勝1敗の勝利を収めている。
その後1969年の2月にワールドキックボクシングから出場要請を受けた極真会館は、わずか2ヶ月の準備期間で無謀ともいえる挑戦を果たし、見事な戦いを見せ、特に"日大の花"と呼ばれる山崎照朝は10日おきの戦いで2連勝、しかも2戦目は沢村忠の30連勝をストップしたカンナンパイを前蹴りの一撃で1ラウンドKOをしたりと、想像を超える活躍を見せつけた。
どうやらそれが大山倍達の中で、自身もアメリカでプロレスを回って興行というものを知っていたため、ゴーサインを出す材料となったようで、全日本大会の準備は進められ、当初のルールとしては素手での顔面突き、金的蹴り、投げ、グラウンドありの、真の日本一を決めるというものだったという、ある意味後の第一回UFCすら超えるすさましいルールだったともいえ、事実として当時の極真では本部道場の1階に畳が敷いてあり、投げ、寝技も練習しており、総合ルールに近いものだったというが――
しかしそれは前例のない過激さのために止められ、相談した結果、顔面強打、肘打ち、頭突きこそ禁止だが、掌底による牽制は可能、足技の顔面攻撃も可能、突きは3連打以上は反則、つかみは3秒までで、投げも可能というようになったという。
ただここに至るまで開催が伸びていたという話もあり、有力視されていた藤平昭雄や加藤重夫、芦原英幸などが出ていたらどうなっていたかというのも非常に興味深いものだといえる。
参加人数は48名。
試し割り部門と組み手部門の2つから成り、従来のものから型部門を廃止。
試し割りは正拳、手刀、肘、足刀で行われ、最低3枚割れないと失格。
そして空手界の各流派、武道及び拳法、ボクシングにキックボクシングなどあらゆる格闘技者が参加できる、オープントーナメント。
当ててはいけないというそのタブーに挑戦したといわれる大会。
人死ににが出るとまで煽られ、その結末が誰にも予想出来ないと恐れられた大会。
大会のポスターは雑巾に墨をつけてバッと投げて、墨が飛び散ったところに大きく丸を書いて作成された。
大山空手が爆発する。
会場にはその当時、空手の大会といえば2000かせいぜい3000どまりといわれるそれを大きく上回る7000人が詰めかけたという。
後年、大山ます達は東京オリンピックに足を運び、その競技を見てオープントーナメント制の採用を思いつき、しかしその当時名前が知られていなかったために会場が見つからず、東京体育館に決まるまで伝手を頼って5年の歳月をかけて開催されたといわれるこの大会。
ボクサーやムエタイとの対決
やはり中心となって活躍したのは山崎照朝、"城西の虎"添野義二の2人、そこに第二回大会で優勝を果たす後輩にあたる長谷川一幸が噛むという構図だったという。
そこにアメリカからの刺客、ヘビー級の現役ボクサーポール・ジャクソンが挑んだ。
身長180センチ、体重80キロの巨漢。
戦慄のパンチ力に対戦相手の中にはすっかり威圧され、初めからビビっているものもいたといわれるが、身長165センチという小柄ながら、体重は70数キロ、こつこつと稽古して廻し蹴りをマスターし、たゆまぬウェイトトレーニングにより腕相撲をやったら右に出るものがいなくなったという長谷川一幸と同ブロックだったというが、堂々5位に食い込んだという。
タイからは3人のムエタイ戦士が挑戦してきており、それぞれに活躍し、特にサマン・ソー・アディソンはあの"キックの鬼"沢村忠と対戦し、16度もダウンを奪って勝利したという伝説的な男であり、さらには二大殿堂の1つルンピニースタジアムの、神の階級といわれる軽量級のフェザー級8位というものすさましい肩書も所持しており、その蹴り技は鞭のようにしなると見るものに舌をまかせたという。
ほかには金村清次、三浦美幸、高木薫、さらには柔道のギドンという選手なども出場していたといい、そんな中やはり山崎照朝が熾烈な三つ巴戦を、組み手、例し割り部門両方を制しての完全優勝という形でその名を歴史に刻んでいる。
準優勝を添野義二、第3位を長谷川一幸という形で幕を閉じたこの大会。
準優勝した添野義二などは当時初段だったというか他の道場が三段や四段で来るから、よその先生に悪いから急遽三段で出ることになったといい、一本背負いで相手をのばしたりもしたという。
優勝した山崎照朝によると、
大山館長のそばにいたら死ぬと思ったもんね、俺笑
だって押忍しかいえねえんだもん。
第一回大会の前なんて、同じ人間がやることだから大丈夫だよ、キミィ、っていわれると押忍しかいえないじゃん。
そうしたら寝てられねぇんだよ。
夜中でも稽古するんだよ、負けたら格好悪いから。
とその当時の雰囲気、プレッシャーを語っており、事実としてこの山崎照朝の優勝により空手のイメージががらりとかわり、実際本人も
空手を正義にしたのは俺だよな笑
と笑っているようである笑
まさに劇画空手バカ一代の世界観、ボクシングにムエタイ、多流派、それらが区別なく入り交じり、バトルロイヤルのような様相を呈する中、勝ち上がり、最強を天下のもとに示した、現実と漫画の世界がクロスオーバーした夢舞台だったといえるだろう。
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