“ブリテンの騎士”ジェフホワイブロウ 18歳でイギリス3位の天才王者!チャックチズムと激突し全日本にも出場、マイケルトンプソンにディヴグリーブスを世界大会に送り込む!

2024年4月9日

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全英大会での活躍

ジェフ・ホワイブロウ。

ハワード・コリンズやマイケル・トンプソンなど多数の強豪選手を輩出してきたイギリス初期の、天才とも言える空手家である。

11歳から空手を始め、最初期とも言える1976年に開催された全英選手権大会において、わずか15歳にして体が大きいからと言う理由で大人と組み手を続けてきており、出場時若干18歳にして脅威の3位入賞。

さらには翌々年の1978年準優勝、そして1979年には優勝に輝き、これは同じく初出場の第12回全日本空手道選手権大会で、わずか17歳にして4位入賞し、その後も連続入賞を続け、全日本大会二連覇、第4回世界大会優勝を成し遂げる風雲児、松井章圭と肩を並べるにふさわしい実績と言えるだろう。

ちなみにジェフホワイブロウはある年の全英大会、試合前の試し割りを2回連続で失敗しており、その時はルール通りに失格にとやり、自らの力を発揮することなく悔しい思いをしたと語っていることから、もしかしたらそれはその空白の年のことであるのかもしれない。

その優勝した1979年、第2回世界大会に向けて、ブロックのようなレンガのようなものを5枚重ね、手刀の一撃で見事に終わり、その大会においては、フェイントをかけて、隙をついての一瞬の跳び前蹴り。

強烈なローキックで足を効かせて、バランスを崩しての顎への膝蹴りで技ありを奪い、そして彼の代名詞とも言える後ろ蹴りで完全なる一本勝ちを奪っている様子が見られる。

さらには後に映画界のスーパースターとなり、その年に行われた第2回全世界空手道選手権大会で、世界大会2連覇を果たす中村誠と真っ向勝負をして、延長に次ぐ延長で追い詰めた、リアルアクションスター、ドルフ・ハンス・ラングレンと激しい打ち合いをしている様子が見られ、お互い下突き、そしてラングレンが膝蹴り、ホワイブロウが飛び技を放ち、互角の展開が繰り広げられる。

さすがに身長差がありラングレンの蹴りが顔面をかすめ、何度か場外に押し出されるが、しかしホワイブロウも1歩も引かず連打に次ぐ連打で応戦。

最後は手数、ボディーへのダメージが見られ、顔面への飛び廻し蹴りが決まる。

優勝し、若干21歳にしてまさしく英国代表として、ジェフホワイブロウは1979年11月23日から25日に開催された第二回全世界空手道選手権大会に挑む。

非常に鋭く、高い前蹴上げを連発し、その高い飛び横蹴りの到達高度は3メートルにも及ぶのかもしれないわからないけれど。

第2回世界大会での戦い

188センチ76キロと言う恵まれた体格にして、鋭く途切れることのない素早い動き。

その戦い、ベテランであるというカナダのコロンベのプレッシャーに対して、ジェフホワイブロウは冷静に右下段廻し蹴りの連発からの左ハイキックで距離をとり、右下段廻し蹴りを効かせてからの右後ろ回し蹴りからの、左後ろ蹴りのカウンター。

そして相手の左後ろ回し蹴りを躱しての、大技直後の硬直を狙っての鮮やかすぎる後ろ蹴り一閃!

一撃必殺、見事なり!

そして3回戦、終盤戦、いやこの大会のハイライトの1つとも言える試合が繰り広げられる。

アメリカのチャック・チズムVSイギリスのジェフ・ホワイブロウ。

チャックチズムはアメリカのウィリーウィリアムに次ぐとも言える男、その彼とイギリスのチャンピオン、当時"ブリテンの騎士"と言われていた、ジェフホワイブロウとの決戦。

戦いはチャックチズムがアップライトでリズムを刻み、ジェフホワイブロウが広いスタンスで迎え撃つ形。

チャックチズムがパンチ連打から廻し蹴りで攻め込む。

それにジェフホワイブロウは得意の後ろ蹴りで応戦、先制、そしてカウンターで用いる。

チャックチズムの廻し蹴りに対して前蹴りで合わせ、さらに後ろ回し蹴りをこめかみに!

円対直線、連打対一撃。

しかし接近戦になりパンチの打ち合いとなると、まさしく鉄拳の様相を持つチャックチズムに対して分が悪くなる。

しかしその中でも華麗な後ろ蹴り、さらには飛び前蹴りを顔面にぶち当てる。

合わせて合わせてチャンスを待ち、後ろ回し蹴り一閃!

再々延長、パンチの連打、下突きが効くが、一瞬の隙をついて投げ飛ばし、連打に巻き込まれながらも、なんとまさかの縦回転の胴廻し回転蹴り!

衝撃。

後に"空手革命家"塚本徳臣が編み出し繰り出す前に、確かにその蹴り方、原理こそ違うものの、この発想を浮かべ、実行していた男がいたのか!

確かに側頭部を捉え、倒したが、ダメージと言うわけではなく巻き込んだ形で、ポイントはおそらくほとんどなかっただろう。

残念ながらパンチ、つまりは空手の命である正拳、下突きの威力の差で、ジェフホワイブロウは敗れた。

しかしそこで会場の皆に与えたインパクトは、決して小さいものではなかっただろう。

全日本大会出場そして名指導者へ

その後ジェフホワイブロウは1980年の全英大会重量級で3位入賞し、1981年11月14、15日に行われた第13回全日本空手道選手権大会出場。

しかしそこで1回戦、その大会ベスト16、そして次の大会で第3回世界大会にてウィリーウィリアムスを破る田原敬三を倒してベスト8入りを果たす脇内勉に敗れる。

その時のインタビューで、

「イギリスでは極真カラテの圧倒的な強さと組織の厚い繋がりを、野蛮だ、と評して兵糧攻めにせんとしている人が多い。

しかしそれは弱者が強い者に抱く嫉妬に過ぎない」

と、わざわざ日本まで訪れ1回戦負けを喫したとは思えない様な爽やかな笑顔を残した。

そんなジェフホワイブロウだったが、話によるとあまり若いうちからハードな組手をしたため、24歳でドクターストップがかかったという。

なるほど、その後も上位入賞者に彼の名前がないのはそういうことが、残念この上ないと考えていたところ、1989年の全英大会中量級の部の優勝者に彼の名前を見つけ、その当時彼は30歳ではないのかと考え、複雑なものと同時に、何かこう胸にこみ上げてくるものを覚えた。

1984年、当時25歳時のレポートによると、

「ジェフはもう試合には出場しませんが、2人の生徒を世界大会に送り込みました。

指導員としても立派です。

ただ強いだけではなく礼儀もきちんとしており、相変わらず好感が持て、スティーブ師範の補助をしながら若手指導員のトップに立って極真空手の普及に活躍しています」

そしてその育てた弟子というのが、イギリスの黒豹マイケル・トンプソンと、ディヴ・グリーブス。

マイケルトンプソンは言うに及ばずヨーロッパ選手権は何度も優勝し、第3回世界大会で世界大会2連覇の中村誠を延長5回まで追い詰め、第4回世界大会4位、さらに後にK-1でも活躍することになる、偉大なる名選手。

そしてデイブ・グリーブスは、第3回世界大会にてベスト16に進出し、そこでアメリカのギャリー・クルゼヴィッツと戦い、延長の果てに3対2の判定で破り、ある意味では師匠の雪辱を晴らすことになる。

選手としても、指導員としても、イギリスの最前線で活躍し続け、偉大なる足跡を残し、その武道精神、空手以外のヌンチャクの技術なども見せつけた男。

ブリテンの騎士、ジェフホワイブロウ。

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