“必死の心”黒崎健時 大山道場師範代、藤原敏男育成の原点は生き埋め、山籠もり、断食断水断眠根性焼き、牛殴りだった!

2024年4月9日

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X JAPANのYOSHIKI

大山道場初代師範代黒崎健時

現在の打撃格闘技の原点と言われる、極真空手。

その大元となった大山道場にて、初代師範代を務め、ある種国内外の格闘技界に最も大きな影響与えた空手家ともいえる人物である。

その彼が残した足跡は多岐に渡り、広くあまねくと言われ、書籍によるとあの音楽業界で長く第一線で活躍し続ける世界のX JAPANのYOSHIKIですら、

黒崎先生のいう限界などないと言うことを自分もいつも思っていて

ステージで何回か倒れましたが、まだできるんじゃないか

可能性は無限にあるんだ、と信じています。

音楽も根性。

先生の言葉に格闘技と音楽の一致点を見つけました。

と語っているほどであり、その幼少の頃は本人曰く苦い米、おかぼと呼ばれる陸稲を食べて、子供ながら必死に労働をして過ごし、それによって大人顔負けの筋力を得て、17、8の頃には盛りのついた種牛をとり抑えるために、耳の後ろを3、4発ぶった抱き、脱糞にまで追い込んだと言う。

そんな大山倍達とある種同じ道をたどり、やがて師事していた剣道の先生の後押しもあり、上京。

そこでの修行を経てまた田舎に戻り、20日間の断食、1週間の水断ち、不眠などの荒業をこなし、さらには近くの雑木林に穴を掘り、節を抜いた長い竹筒を持って中に入り、それを地上に出し、上から土をかぶせてもらうと言う生き埋めにも挑戦したと言う。

生き埋め

穴の中は真っ暗で何も見えないし、物音1つしない。

食べるものも飲むものも無論ない。

何日できるだろうか、不安がなかったと言えば嘘になるが、むしろ楽しみさえ感じていた。

と言う凄まじい言葉を綴り、不思議な静けさの中で自分の呼吸する音だけが唯一の音であったと語り、このまま死んでミイラになれればそれ自体修行おける1つの勝利であると信じる中、夜中、兄に掘り返され、邪魔をしないでくれと怒鳴るも、母の泣きながらの出てきておくれに、その挑戦は3時から8時までの5時間で完結することになったと言う。

さらには僧の心頭滅却すれば火もまた涼しいという行を聞けば、線香1束を右手に持ち、火をつけて左腕の上腕部に一気に押し当て、すぐに水と油が出てきて線香の火が消えそうになり、息を吹きかけて燃やし続け、肉の焼ける臭気が部屋に充満し、胸が悪くなりそうになりながらもひと束全部が燃え、すると握り締めていた左の拳が開かなくなり、それどころか腕全体がピンと張ったまま動かず、筋を焼きってしまったのではないかと不安になったと言うが、しばらくすると動きを取り戻し、熱さに耐えるためちからいっぱい握り締めていたから動かなくなるのは当たり前だと納得したと言う。

そのような無茶をしたのも、できないかもしれない、と言う考えが頭の隅に少しでもあること自体、許せなかったためだと語り、

一年患っていた腰痛が、どれぐらい使えるのか不安を感じたために、裏日光の古峰ヶ原の炭焼き小屋に1人こもることにしたと言う。

…正直それがなぜそのようにつながるか自分のような凡人には理解しがたいですが、まぁ、なるほどというか…

山籠もり

持参したものは米と塩と梅干しと味噌。

その小屋を拠点に山道を登ったり降ったりの激しい山業に邁進し、ときには太い木に力の限りの勢いでぶつかり、石をぶら下げておいてそれを打ったり、蹴ったりもしたと言う。

手形ので松の木をへし折るなどもししたと言うが、冬になると夜は氷点下20度にも達し、雪が降り始めてせんべいぶとん上下1枚ずつしか持参していなかったと言う黒崎健時は、その指や足が床につくとペタっと凍りついたようにへばりついてしまう状況に陥ったと言う。

布団に入っていてもじっと身を固くし、外の空気を中に入れないようにしていなければ寒くてとても眠れたものではなく、米と塩を残して他の食料が好きでも雪が深くて帰るに帰れず、雪山の中でただ1人、気も狂わんばかりの孤独感の中で目を覚まし、眠る毎日を送ったと言う。

そんな入山生活は82日間にも及んだと言い、

腹が減れば食べたいし、喉が渇きが飲みたい。

悲しければ泣きたいし、嫌な事は忘れてしまいたい。

疲れたら休みたいし、嫌な事はやりたくない。

欲しいものは手に入れたい。

人間の欲望はキリがないものだ。

欲望が満たされないと、不満が生じる。

この不満を和らげるためには我慢をしなければならない。

我慢を重ねていくうちに不満が消え、なんともなくなってくる。

不満を感じているうちは、まだ心にゆるみがあるわけで、ギリギリの我慢を重ねると、欲望も物質欲を離れて生の欲望のみに純化されてくる。

こうなったときの人間は強い。

己の肉体を不動心と一体化できるのである。

故郷での生活の中で私が感じていた焦燥感や精神的飢餓は、厳しい自己鍛錬をくぐり抜けることで、次第に消え、己に対する大きな地震と不動心と戦闘性が私の手にもたらされた。

それは確かに狂気の沙汰とも思える自己鍛錬の結果ではあったが、自分の限界を絶えず声をとする試みは、形を変えて現在の私の行動の中でも依然としてなされている。

生きると言う事はそういうことであり、闘い以外の何物でもないのだ。

牛を殴り、断食、水館、不眠、さらには生き埋め、根性焼き、山ごもり。

常人には理解しがたいであろうそれらの苦情を自らに化したその裏にあったのは、それらの持て余す自己を超えるため、その結果自らを純化させ、地震と不動心と戦闘性を手に入れ、そして自らの限界を絶えず越えようと戦う、つまりは黒崎健時にとって生きるための行為だった。

これが根本にあるからこそと考えれば、それからの彼が成した偉業、その原動力、それがわかると言える、まさに出発点と言えるだろう、もちろん100%越えで120%真似ができるとも思いませんし真似することが推奨はできませんしできるような人がこれから現れるとも思えませんが…そういった意味でもやはり時代が生んだ類稀な人材とも言えたのでしょう。

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福田久一郎

そんな黒崎健時には3人の師と呼ぶに足りる人物がいるという。

最初の子は剣道家の福田久一郎であり、そこでの修行もまた凄絶を極めていたという。

あえて面以外の防具をつけず、道場生たちから凄まじい竹刀、木刀の洗礼を受ける。

しかも竹刀の竹が割れて、目を刺すことがあったからだという話。

当然体中傷だらけ、あざだらけとなり、中でも胴に当たった竹刀は当たった瞬間竹と竹の間が広がり、その竹刀を引き戻すと筋肉を挟んでいくので腹や横腹のあたりには絶えず蚯蚓腫れの線が何本も走っていたのだと…

1日300回は叩かれ、それにちょっとでも気がそれていると道場の羽目板に手をつかされ、木刀や精神棒で尻を思い切り叩かれたという。

そのあまりの激しさに5発目位で尻の皮膚がパンパンに腫れあがって、後でパンツが脱げなくなってしまったという話だ。

それにより凄まじいばかりの打たれ強さを手に入れ、さらには柔道を習い、寝技対策なども徹底的に行い、白帯で県の代表選手になったりもしながら、とある事件をきっかけに上京、佐郷屋留雄の元へ預けられ、武道修行に邁進、しかしほとばしるものを持て余し、そんな心の内を見抜かれ田舎へ帰り、空手と剣道の修行を続けながら農作業も手伝い、さらには30人のヤクザ相手の大立ち回りなどの派手な喧嘩も行い、しかし自らが語る意地っ張りで負けず嫌いな性格を、空手という1つの武道にかけてみようと思い、再びの上京。

それが23歳の時だったといい、当時空手といってもほとんどの人が知らない未開発の分野だったという話で、道場も稽古生も少なく、ちょっとした広場や庭先で各人がバラバラに稽古していたのだという。

それぞれが暗中模索の中、黒崎健時自身も何をして良いかわからず、電柱に背を向けて痛みから目をそらし、振り回思いっきりぶったたいて拳を3倍の大きさに腫らしてみたり、打たれてそれ以上の力で打ち返すという力まかせの組み手を展開したりし、さらに後年には先生に無断で日本中の全空手流派の先生方に手合わせの申し込みを送付したりともがき続けたというが、果たしてその佐郷屋留雄からの上京の催促の葉書を受け取り、宅に伺い、そこで――

佐郷屋留雄

この前、空手の大山くんが来たんだ。

命がけでやれるやつを紹介してくれといわれた。

その時、とっさに1人だけいる、と君のことを話すと、ぜひその男を紹介してくれというわけだから、お前行け。

さらにはその時佐郷屋留雄は大山倍達に、

大山先生、黒崎という男はポインターじゃないんだ。

と話していたといい、ポインターというのは猟の時に取りに行く猟犬のことだという話で、

黒崎は猟犬じゃないから、獲物が落ちたっていかない。

だけど、自分でこれだ、と思ったら自分で的確に捕まえてくる男だ。

それを頭に置いて面倒を見て欲しいんだ。

という断りをしていたという。

自宅に伺い、その際大山倍達は、

この男じゃ、この人相じゃ断ったほうが無難だろうな

と思われていたという話で、当の黒崎健時の方も、

どうしようかな、いくら佐郷屋留雄先生の紹介でもこれはな……しかし、ひょっとしたらこの男なら命をかけてもいいかもしれない。

というのがお互いのファーストインプレッションだったという。

その後家に上げてもらい、当人曰くいろいろあり、始まった合宿ではなんと驚愕の2ヶ月も3ヶ月も続けて行っていたという。

現在の合宿では1白2日、2泊3日などが一般的だと思われるゆえに、その異常さはあまりにも浮き彫りになるといえるだろう。

大堀の神社にあるという330段の階段を朝5時に駆け上り、槙原に拳を叩きつけ、1日で拳の皮が切れてずるむけになり、2日目になると拳が熱を持って腫れ上がり、ちょうどゆで卵半分乗せた位になり、そこで血が出たときにろうそくに火をつけてその部分に擦り付けて焼く――ばい菌が入らないように、そして次の日になると真っ黒に焦げて、固まった部分がピシビシッと割れる。

その中から青い膿がとろとろっと出てくる。

その状態で打つと最初の2、3発っていうのは脳がしびれる、痛いとか痛くないんじゃなくて、ビーンと痺れるという。

そこでくそ、このやろうと思って20発ぐらい叩くと麻痺してきたという話だ。

それを先生はやめろといってきたという話だが、やめろといわれてやめたんじゃこれはもうとんでもないと、

いや、大丈夫です。

拳が抉れる

といって続け、本部長なんかもいっぱい来ていて黒崎が痛い顔するだろうと思ってそれを見ていて、余計痛い顔出来ないよと語り、それを1週間ぐらい続けたら、もうおしまいにはピンクと白の肉が出ちゃって、

あれ、ちくしょう、骨が出ちゃったな。

と思う位えぐれちゃって。

それでも、これでやめたんじゃ私の負けだって思うから、その痛い拳で三発、四発ガーンと目が回るほどやったという。

当人曰く、あれで気が負けてたら絶対に骨膜炎になって切らなきゃいけなかっただろうね。

でも気が勝っていたから。

こんちきしょう、骨が刺さんないかな。

と思って叩いていたという。

痛さは感じないんだよ。

自分でも後でこれだけ我慢して、ものにならないんじゃ、これはしょうがないなって思ったよ。

まさに黒崎の掲げる必死の心、それが垣間見える、ついに邂逅した大山倍達との性絶という言葉すら生ぬるいほどの、それは常軌を逸した稽古ぶりだったといえるでしょう。

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