空手の後輩に想う、馬を水辺に連れて行くことができるが水を飲ませることはできない

2019年10月11日

後輩に想うこと。

ある意味これは独り言に近いかもしれない。そういう意味でツイート、よく知り合いと冗談めかしていうが、1人Twitterかもしれない(笑

しかしこれもまたある意味考察でもあるし、人に見てもらうことに意義があるかもしれないので、ブログとして公開しようと思う。

空手の後輩がいる。非常に才能がある。体格にも恵まれ、自分で言うのもなんだが高校の頃から自分と一緒に組み手をしてきたのと、熱心に教えて、そして自分を慕ってくれたことによって、私の空手観と、そして感覚と言うものを共有している。そしてそれを体験するだけの素養を秘めている。

本人にもよく言っているが、全日本をとることも夢ではないほどの逸材で、それはすなわち世界も狙えると言うことにもつながる。

しかし、私は諦めてしまった。

1つは、彼は私から離れてしまった。

露骨に嫌うたとか、袂を分かったとか、そういうわけではない。しかしもともと気分屋なところがある上に、県大会クラスではほとんど敵なしのレベルになったところで、あまり私の話を聞かなくなってしまった。

要は寄り付かなくなってしまった。

そしてもう一つが、私と感覚を共有できなくなってしまった。

端的に言えば、安易なほうに走ってしまう。

これは強くなる過程では、避けられないものの1つである。あえて将棋でたとえさせてもらうが、最初のうちは駒が歩と香車と桂馬位しかないから、よく考えて、なんとか上手に詰ませようと工夫を凝らす。

少し肉体改造等を経て、将棋で言えば持ち駒が飛車角金銀などが増えてきたことで、逆に言えば格下相手だったらごり押しで勝ってしまう。飛車の連打、金の連打で勝ててしまう。だから工夫をしなくなってしまう。

しかしトップレベル同士では、お互いがそれだけの持ち駒を持っている同士だと、当然工夫した方が工夫しない方に 10回やれば10回勝つ。

しかしそれがわからない。県大会レベルならばごり押しで勝てるから、もっと駒を増やせば同じようにごり押しで勝てると考えてしまう。しかし駒を増やすのも限界がある。だからこそ、トップレベルはみな工夫をしている。

しかしそれがわからない。わかるかわからないか、それが二流と一流半、そして一流との違いだ。

見えている世界が違う。

残念だ、と言う思いと、まぁいいか、と言う思いが同居している。

以前も述べたが、武道は道だ。歩くことにこそ、意味がある。勝ち負けは過程に過ぎない。勝ったから何か、強くなったから何かある、と言うのはあくまでスポーツだ。そしてエンターテイメントだ。

彼はもっと強くなり、そしてもっと勝ち、チャンピオンになる可能性を持っているが、しかしただそれだけのことだ。別にならなくても、それはそれで彼が幸せになれば、それで問題ないと言える。

私は後輩に想っているのは、そういうことだ。こういう時、昔の含蓄ある言葉が脳裏をよぎる。

人は、馬を水辺に連れて行くことができるが、しかし馬に水を飲ませることはできない。
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