あの日の邂逅

2019年10月11日


 空に、堕ちた。



 彼女のその姿は、ぼくの瞳にそう写った。

 真っ逆さまに、天に吸い込まれていく。

 そんな風に見えた。
 それは常識で考えられている重力とは、真逆の原理。あり得ない、逆流。

 なのに彼女は。

 瞳を閉じて。

 まるですべてを、流れに委ねているようだった。
 恐怖など埒外の感情のように。
 それらすべてが、当然のことのように。
 それがぼくに、どこか不思議な錯覚を起こさせた。

 足元が根底から、崩れ落ちるような。
 まるで天地が、逆転してしまったような。
 それはすべての理(ことわり)が一瞬にして反転してしまったかのような、形容しがたい不可思議な感覚だった。

 大切な宝物が、ガタクラへと姿を変え。

 唾を吐いて軽蔑していたものが、なによりも上座に至る。

 それは、恐ろしい連想だった。

 日々の生活で続けてきたすべての事柄が――努力が。
 起こってきた出来事が――思い出が。すべて反転し――悪となり、代わりに犯罪や裏切りなどが、もてはやされる。

 それはなんて地獄なんだろうと、一瞬考えた。





 もしそれが実際に起こり得るとするなら、ひとはまともには生きていけない。
 日々の生活を積み重ねることがひとの営みそのものともいえるのに、それ自体が否定されるとするなら、ひとはなにを寄り代に生きていけばいいのか?

 知能というものを脳にプログラミングされたその日に、ひとは本能のみで生きるすべを失った。

 それは科学や運動分野やその他もろもろの多大なる発展を生んだが、同時に環境破壊などの大きなジレンマも抱える結果になった。

 そして本能にのみ従う動物と違ってひとは、悩むようになった。
 それを解決するために意味や意義などから、自身の存在証明を図るに至った。

 そしてひとは、自身では解決できない事柄をより大きな寄り代――神や悪魔などの架空の存在に、頼るようになった。

 ならばそも。

 知能は、本当に必要なんだろうか?

 悩み、苦しむためだけのものなら――アダムとイヴが知恵の実を食べてしまったことにより間違って得てしまったものなら、そもそもが不必要なものだったんじゃないんだろうか?

 ふと、そう考えたからなのか。

 その時のぼくには、空に堕ちていく彼女の姿が――美しいものに、視えた。

 なにものにも、縛られていない。世の理と呼ばれるひとがひとのためにひとの手により勝手に作り上げた様々な道理、善悪、ルールなど、その視界にすら入れてはいない。

 生まれた、そのまま。

 生物としてありえる様々な可能性、あらゆる枠組みを彼女は、超越して視えた。その在り方はもはや、ひとと呼ぶことすらおこがましい。

 それこそ天使や悪魔といった、人外の存在。
 そんな風に、ぼくには想えた。

 ぼくはそれに、手を伸ばした。
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