死に至る病―うつ病闘病記⑭「変わらぬ現実と死を尋ねる悪魔」
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空回りの初受賞

結果的に最優秀文学賞を獲ることは叶わなかった。
私が獲得したのは、期待賞だった。
それでも私が執筆活動してきて、10年以上も続けてきて、それが初めて形になったものだから、それが嬉しくないわけでもなかった。
だけど胸中は、正直な話複雑だった。
せめてものと、爪痕を残そうと、そしてSNS上で、電話やメールやLINEで、自分のことを応援してくれて、期待してくれて、声をかけてくれた人にせめて想いに応えようと。
私は壇上のインタビューで、
「獲ったぞ――――――――ッ!!!」
と会場全体に響き渡るほどの叫び声をあげた。
カメラで録画しているような感じだったので、何かしらの意味がある…と願いたい気分だった。
そして私は実家に戻り、その後3週間ほどを経て、関東に戻っていた。
とりあえず引っ越した時に、電気ガス水道はその日から通すようにお願いしていたし、大家さんのご好意で未だ家賃は発生していなかったから、とりあえずそこまでは費用は掛からなかった。
何も変わらない現実
何か、何か変わってくれるか、変わってくれれば――そんな想いがあったのは事実だ。
しかし、結局その賞を獲ったことによって変わったものは、何もなかった。
後に送られてきた批評は、斜めに流し読みした、劇的に面白いわけではなかった、というものだった。
そして私は、追い詰められて、考えた末に、とりあえずという感じで年末にやっていた派遣会社に連絡した。
稼がないと食べてはいけない。
根拠は無いけれど、まだ帰らない、その選択肢を私はした。
体力も気力も何もかもまだ中途だった私は、考えに考えてせめて週に3日から4日は働かないとどうにもならないと考え、
働こうと考えている前日まで待ってから派遣先から送られてくる仕事一覧のメールを見て、そこでこれはいけるかも…? というものにチェックをして送り返し、そこに決まれば受けて、決まらなければ電話して他の現場を打診して、それでもダメだったら諦めると言う、綱渡り以外の何物でもない日々を送ることになった。
どうしても自信がなくて、希望が持てなくて、そんな風にしか生きることができなかった。
死にたいかと囁く悪魔
派遣の現場というものはなかなか厳しいもので、中には人間扱いしてくれないようなところもある。
おいそこの派遣! そんなふうに呼びつけられることもある。
派遣なんて名前の人間、どこにもいないのに。
ずっと監視されるように動きを見張られて働かされ続けて、自分がギアか何かのように感じられることもあった。
一度だけ、幻を見た。
ひたすらものをコンベアに乗せ続ける作業で、あまりのスピードに最初はついていけずに叱責を受け、生真面目さゆえに必死こいてやっていたら、だんだん意識が薄れていった。
心臓がバクバク鳴って、視界が霞んで、手足がしびれる。
そんな時、部屋の隅っこに、よくわからないものを視た。
正体不明の生き物が、こちらをじっと見つめていた。
口すら動かしていないのに、何を伝えたいのか理解してしまった。
「もう死にたい?」
僕は口の端に皮肉な笑みを浮かべる。
「まだ……もう少しだけ、死にたくはないかな……」
生きたい、と断言することができなかった。
それぐらい追い詰められていた。
そんな毎日だったから、月の最低限の金額も稼げないこともザラだった。
人生で初めて、水道光熱費を滞納した。
いや、水道代は家賃と一緒だったから、実質的には電気ガスインターネット代を滞納することになった。
2ヶ月滞納すると、黒い葉書が送られてきて、次はない、強制的に停止すると脅されると知った。
毎日毎日、5時半ぐらいに帰宅して、そのまま死んだようにベッドにぶった折れて、1時間から2時間後に起きて、そこから夕食を作って、食べ終わったときには動けなくなって、それからほんの少しだけ稽古して、茶碗を洗ったりお風呂に入ったり歯を磨いたらもう寝なきゃいけない時間で、
自分と言うものがよくわからなくなってきていた。
自分なんてものをわかっている暇がなかった。
ただ必死にもがくように生きていた。
少しづつ定着してきた現場
そんな日々だったけれど、1年近く続けていくうちに、自分のペースに合っている現場と出会い、そこが週に3日位は定期的に呼んでくれる会社で、そして会社の方にも気に入られて、そこを軸にして他のいくつかの現場を組み合わせると言う風なペースができていった。
いくら日雇いの派遣スタッフといっても、本当に毎日毎日新しい現場に回されては、心身ともにきつすぎる。
場所によっては最初に体を壊したところのような、本当に過酷なところもあるし、人を派遣呼ばれするような、四六時中怒鳴り声が飛んでるような劣悪なところもあるから、その心配や、場所を見つけられるかと言うような不安や、それに毎日さいなまれては、心身ともに病んでしまう。
そもそもがうつ病で、回復率は4割程度というのに。
だから自分が合っていると感じられるところが、定期的に呼んでくれて、自分も気に入ってもらえたと言うのは、幸運だったのかもしれない。
仕事は2トントラックに20キロ位ある段ボールを目一杯詰め込むと言うもので、真夏に行えば密閉した空間のため、終わったらボロ雑巾のように疲弊し、Tシャツが絞れる位に汗をかいて、決して楽ではなかったけれど、それ以外の仕事はある程度ゆるくて、締め付けもあまりなくて、人間関係も穏やかで、これだったら何とかやっていけるかもしれないと思えていた。
それでも週4日には満たないので、月曜から仕事を詰めていって、どうしても辛そうな現場は、もしくは交通費が出ないので自転車で変えない範囲だったら外してと言う感じで、それで何とか組み合わせて週4日働くと言うペースが一年くらいを通して、出来始めていた。
こんな風になるなんて思ってもいなかったけれど、
とりあえずは、関東にまだ入る事は許されているような感じだった。
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