武道家足る父との語らい ~戦い及び武道、命を賭ける空手論
父との武道討論、その見解の相違
考えすぎた武道の意味
今回は長年父と空手について語ってきましたが、かつてないほどの収穫を得ました。
バガボンドでは無いですが私は武道の、空手の意味について考えすぎていました。
私は試合、つまりは組手とは、相手との調和だと考えていました。
相手がこう攻めてきて自分がこう受けて、そして反撃して、相手に綺麗に決めて、そして結果的に美しい攻防が繰り広げられて、美しい一本の線のようなきれいな組手と言う芸術品ができあがる。
私は今まで、そのように考えて、そのような素晴らしい組み手を作るように心がけてきました。ある意味では、それは将棋的な発想だったのかもしれません。棋譜と言うものは、受け攻めが一手ずつに切り替わり、その美しさと言うものがよく論議されます。
しかし今回、私は敗れました。試合を見返してみて、押し合いや、手数では負けていないように思っていました。
しかし、父に指摘されました。
お前は、攻撃する気がない
そんなことはないと、反論しました。私は自分なりに精一杯、勝とうと、相手を攻略しようと、そうやって尽くしてきたと。
しかし父の意見は違いました。
いや、私の考え方が、多少ピントがずれていた、と言うのが本当でしょうか。
自分は空手家では無い。ただ空手をやっている人だ。
武道には、道と言う文字がついている。
それらの考え方が、間違っているとは思いません。しかし、いざ相手と戦う、そういう段階に至った場合には、また話が違ってきます。
バキ、と言う漫画を思い出しました。やはりこれだけ世界に認知されている漫画と言うものは、その奥底にある種のの真実を秘めていました。
戦いとは、自分がやりたい戦い方を押し通して、倒す。そういう自分勝手な考え方を、押し付け合いだ。
要約して、自分なりに解釈すれば、こういうことになります。
私はもともと、相手を押しやってと言う考え方が苦手でした。そして、父が昔言った、自相手の攻撃を壱発もらわずに、自分の攻撃100%勝てる、そういった理想を体現しようと思っていました。
解釈が違っていました。父のそれは、額面通りの意味ではありませんでした。
理想の組手
自分の攻撃を当てると言うのは、ただぶつけると言う意味ではなく。
自分の用うる攻撃力を100%相手に伝えて、そして倒すと言う意味合いでした。
相手の攻撃を壱発をもらわずおいうのは、全てさばいて避けると言う意味ではなく、相手に意図したような動きをさせず、ダメージをもらわずと、そういった意味でした。
父曰く、私は自身の実力の4割も出せていないそうです。正直今回、あまりの自分のふがいなさに、生まれて初めて一瞬ですが、引退と言う 2文字が脳裏をよぎりました。
武道と言うものを、私は、まだ理解しきれていませんでした。
空手、強さ、その意味とは?
空手とは何なのか?
父との問答が続きました。
ならば武道とは、何なのか。
空手とは何なのか。
ただ殴って、蹴って、相手を倒す手段なのか。
父の答えは簡潔にして明確、そして深遠なるものでした。
簡潔にして明確、そして深遠なる答え
元来の武道とは、そこから派生した、自らの体を守るため、命を守るために、手足を武器と化して、悪漢からの被害を防ぎ、逆退する術。
しかし、それは始まりに過ぎない。
すべてはそこから、そしてその中で相手の痛みを知り、差し伸べなければいけない優しさを知り、それをするに足るだけの強さを知る。
相手を叩きのめすために強くなるのではない。
自らに降りかかる火の粉を払うために強さを求め、その過程で痛みを知り、優しさを身に付け、そして守るべき人を守るための強さを得るためにそれを求める。
順序が逆だと気づきました。
意味を求めていては、それこそ武道のための武道、空手のための空手になってしまう。
それこそ空手形、実体のない虚空のもの。
子供の頃から空手をやっている、ある意味弊害なのかもしれないと思った。
逆に言えばこのレベルになってようやく理解できる話だと思った。
強さ。
武道。
空手。
優しさ。
追い求めるべき道。
ならば今、自分が理想とする空手はどうあるべきなのか?
守破離と言う考え方で見るならば、まだこれを先達に問うているようでは到底たどり着けないとは思いつつも、しかし開き直りではないが私にはまだこういう問答が必要だとも感じていた。
父の答えはいつだって簡潔だった。
それはこのレベルに達していない者にとっては、言葉足らずに思えるものだった。
その一言に、一体いくつの意味を込めているのか。
命を賭ける
さすがに武道家足る父の言葉を全てここで晒してしまうのは気が引けるので、実はこれまででも色々と意訳させていただいている。
よってこの表現も、あくまで私の意訳である。
正直耳を疑った。
自分の攻撃を全て当てて、相手の攻撃を壱発もらわない、そう幼いころは聞いていた理想を、それを意訳とは言え、その考え方とは180度異なる発想。
正直にわかには受け入れがたい言葉だった。
しかし、自分の考え方の根本的な捉え違いを覚えていた私は、すでにそれだけの言葉でも、どこかとっかかりというか、何をっか言わんとするところはなんとなくではあるが察しかけていたと言うのは事実ではあった。
その言葉に、私は武道の本質を超えて――相手と相対すると言うことの意味、そして勝負を決すると言うことの難しさ、機微を直感的に悟りかけていたように思う。
技術論と指導との違い
天狗にならない
私は、ずっと天狗にはならないように、調子に乗らないように、気をつけて生きてきたつもりでした
事実として、私は実績などなく、ただ頭でっかちに、理論を積み上げてきただけです。
そこに意味があるかどうかすら危うい。
だけど密かに、自分ではそこに価値を認めていました。
正直ある意味では、誰にも負けないと思っていたところもあります。
先日、我が新極真会の世界大会がありました。
日本は王座を死守しましたが、正直海外勢の活躍はめざましいものです。
しかも日本のトップ所は、もはや後は引退を残すのみといったところ。後続も続いていません。
そしてその決定的な違いは、パンチ力。
もともとの骨格、筋力に加えての、正拳突きの技術。
正直、日本人はここまでかもしれないとすら思っていました。一昔前は、ボクシングにはパンチではかなわないと言うのが定石でしたが、今は明らかにそれに追いついています。
パンチ力が強くなければ、うまくなければ、速くなければ、はっきりって戦いにさえなりません。
しかし日本人では、もはやついていけないのではないか?
そんな半分あきらめにも似た境地に至りかけていました。
しかし、武道家足る父の見解は違いました。
自分とは視点の異なる父の見解
現在の日本の指導方法は、子供の時からいかに勝つかと言う事に重点が置かれています。
しかしこれでは体が出来上がっていないとき無理やり対処――つまりは相手とのポイントさえをつけて判定で勝つために、どうしても手数重視の組み手にならざるをえません。
つまり問題点としては、あまりにも幼少の頃から勝ち負けにこだわるのではなく、しっかりと腰を入れて、溜めを十分に効かせて、思いっきりよく打つ――正しく極真空手の原点である一撃必殺に基づいた組み手にシフトすべきだと。
目から鱗でした。
100%同意できる、正鵠を射た意見――しかし私には、残念というか恥ずかしながら、指導方法と言う点では、浮かんですらいませんでした。
私は、分析したり、そのための練習方法を考案したり、創造したり、そういった事は一家言あると思っています。
しかし肝心の指導経験が――それこそ1つの道場を持ったりした経験は、無い。
自分はどこかで、天狗になっていた。
改めて、謙虚な気持ちを思い出せた。
まだまだこの武道家足る父には、それこそ足りていないと、知らしめていただいた貴重な対話でした。
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