死に至る病―うつ病闘病記⑪「大家さんの入居スカウト?」
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申し訳ない金銭的お断り
「そういう訳でありがたいお話なんですが、引っ越すような余裕はまったくないんですよ……」
正直なに言ってんだろうという事態についていけない気持ちと、こんな事もあるのか!?という好奇心で頭の中はいっぱいでした。
それに加えてこの人こうしてアパート中回っているのか? という疑念も湧いて、一瞬隣を気にしたりもしました。
そんなぼくの視線に気づいたのか、大家さんはまたもにっこりと笑います。
「あちこち回っているわけではありませんよ。私は、あなたが良い人だろうと考えてお声掛けさせていただいたのです。お金の問題ではありません。あなたのお人柄のお話です」
「そ、それは恐縮です……」
ぼくは頭を下げました。
なんだか考えが見透かされたみたいで、正直恥ずかしい気持ちになりました。
そしてそこまで仰るならと、僕も現状をすべて打ち明けました。
今更捨てるモノも隠すモノない、と鬱になり、仕事が出来なくなり、周りの協力のお陰で回復はしてきたがお金が尽きかけているというすべてを具体的に。
「――そういうわけで。ありがたいお話なんですが、引っ越すような余裕はまったくないんですよ……」
やや情けなく結論を語ると、大家さんはしばらく考えている風でした。
「……わかりました。お時間取らせて申し訳ありませんでした」
「いえいえ、そんな」
半笑いしながら顔の前で手を振りながら、ぼくはそこで話が終わったと思ってました。
しかし次の日、ぼくのポストに手紙が入っていました。
差出人はもちろん大家さん。
昨晩の御礼と、改めての挨拶と、さらに紹介する予定であろうお部屋の間取りと具体的な賃貸金額までもが記載されていました。
それも、水道代は一括で大家さんの方で払うということで、こちらは格安・定額で使い放題という話でした。
確かに魅力的な物件、お話で、かつ丁寧な対応だったので、このタイミングで無ければなと残念に思いました。
ですがその時は、考えてもいませんでした。
互いの身の上の吐露
また次の日、再び大家さんが訪れてくださるなんてことは――
「すいません、何度も失礼致します」
「いえいえ、そんなことは……」
大家さんの言葉を躱しながらも、僕は戸惑っていました。
一度お断りしたはずなのに、なんの用なんだろう?
いや実際はそこまで考えられず、ただ疑問符を浮かべていたというのが本当だったかもしれません。
再び現れた大家さんは、挨拶もそこそこに、なぜかご自身の身の上話を始めました。
お子さんやお孫さんが、しっかりした所にお勤めだということ。
こういう勧誘のような真似は滅多にせず、実は最初ドキドキだったということ。
下手な人に入られるくらいなら、空けておいたほうが安心だということ。
「あ、あはは……」
ぼくは頭をかきました。
お気持ちはとても伝わってきました。
それだけ、入って欲しいんだなと。
「何度もお邪魔して、申し訳ありません……」
「いえいえ、そんな……」
大家さんに答えつつ、ぼくは複雑な気持ちに駆られていました。
大家さんの気持ちはとても嬉しいのですが、なにしろ先立つものがない。
そこでぼくも、覚悟を決めることにしました。
「ぼくは、空手家なんです……」
打ち明けた時、大家さんの瞳は大きく見開かれ、そして口元を手で塞いだような気がします。
しかし言葉はなにひとつ、紡がれることはありませんでした。
だからぼくも、そのあとの言葉を続けることが出来たように思います。
「だけど大学受験に失敗して上京することになって、そこで出会った小説に衝撃を受けて、そのあと留学を……」
ぼくは、自身の半生を語り始めました。
そこになにか意図的なものはなかったように思います。
ただ大家さんの誠意には、社会的地位もお金も無いぼくでは誠意で答えるほか無かったというだけの話だったかもしれません。
おそらく、2,30分くらいは経ったと思います。
ぼくは、ほとんどすべて包み隠すことも無く話しました。
少し気恥ずかしくなったぼくは、自嘲していました。
「というわけなんです……だからおそらく来年には、ぼくは実家に戻っていると思います。ですから、お気持ちは嬉しいんですが……」
「わかりました」
ようやく理解してもらえたかという安堵と、少しの寂しい気持ちに駆られていました。
だがこれで、この大家さんに無駄なご足労を願う事もなくなった。
そう、納得しようとしていました。
お金の問題の超法規的解決
「そうですか……では、この話はここまでということで……」
「お金が、問題なのですよね?」
当たり前に当たり前のことなのですが、言葉にされると正直気恥ずかしい気持ちになりました。
「はい……お恥ずかしながら、そういうことに……」
「では、こうしましょう」
「え?」
一瞬、聞き間違えかと思いました。
「敷金、礼金――それに今回に限りですが、契約料もいただきません」
寝耳に水とはこの事でしょう。
確実に聞こえたのに、僕にはこうとしか答えられませんでした。
「え……いや、なにを……?」
しかし大家さんの言葉はそれで終わりませんでした。
「さらに、これも特別ですが……今月中に移っていただけるのでしたら、12月分の残りの日数の家賃も、結構です。これで、いかがでしょうか?」
なにが起こっているのか、理解できませんでした。
「え……いやあの、なに言ってるんですか……?」
ぼくは耳を疑いました。
当然といえば当然でしょう。
ついこの間会ったばかりの人間にここまでするなんて――というかそれを言うなら大体大家さんのスカウトというのがそもそも見たことも聞いたこともないし、自分如きの人生で、こんな劇的なことが本当に――?
僕の人柄、そして決断
ぐるぐる巡る思案の中、大家さんはニッコリと微笑みました。
「わたくしは、あなたのお人柄に惹かれました。ですから、いいのです。これで、問題は解決しましたか?」
その言葉は、実際真実そのもので、もはや部屋を移らない理由は見つからない状況に至っていました。
ぼくは力なく、返事をしました。
「あ、はい……すみません……ですが、その…………少しだけ……申し訳ないのですが、考えさせてください……」
「はい。良いお返事をお待ちしております」
最後まで丁寧な言葉遣いと深々としたお辞儀と共に、大家さんは去っていきました。
ぼくはそのまま、戦友に相談しました。
先輩でなかったのは、やはり自分と同じ病気を戦ってきたということと、それゆえ自分の気持ちを一番近い状態で共感してもらえるのではないかという想いがあったのかもしれません。
「考える必要あるの?」
さすがだな、と思いました。
その一言で、ぼくは吹っ切れました。
とりあえず現アパートの不動産会社に電話しました。
違約金などは掛からず、問題なく出られると3度のやり取りで確認が取れました。
さらに電水高熱などのインフラ関係にも電話をし、すべて問題ないと理解。
しかし最後に残り、立ち塞がった最大の問題がまさかの――引越しでした。
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