死に至る病――うつ病闘病記⑨「初派遣で、身体の故障」
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残金15万円
故郷で忘年会を…
そんな日々を潜り抜け9月、10月と過ぎて僕は本来の自分を取り戻しつつありました。
だけど僕は未だにトラウマにより仕事に対する恐怖が全身を縛り、ただ家で日常を無為に過ごすだけで精一杯でした。
しかしそれは今だからこそいえますが、最良の過ごし方でした。
もしその時無理に行動を起こしていたり、仕事をしていたら――再度世を儚み、それこそ再起不能になっていた可能性もあるかもしれません。
しかし現実はどこまでも冷徹で、手心を加えてくれることはありません。
既に述べた通り退職した8月初頭の時点の残金は40万円。
月8万でやり繰りはしていても収入がなく、残金は15万円ほど。
単純計算して、12月の末にはすっかり0になってしまう状況下でした。
そして11月を迎え、とにかく年末年始は、実家で過ごしたいと考えるようになりました。
帰省して、空手の仲間たちと忘年会で騒ぎたい。
そういう欲求が、裡から溢れてくるのを感じていました。
それで、僕は実家に戻る事も考え始めていました。
このまま無理をしても、自分にとってイイ事はない。
今まで散々自分を虐めてきたのだから、ここで一度心のままに行動してみようと。
先が見えない求職
もし通常の求職活動をするというなら、面接で言わなくてはなりません。
一ヶ月程働いたあと実家に戻るから、その時休暇をくれと。
正直、厳しいでしょう。
ならば短期で、となりそうな話ですが、そんなピンポイントで募集している都合のいい仕事などそうそうはありません。
12月末にすっかり0になるかもしれない現状を考えるに、正直理想をいえば10万ほどは稼ぎたいところでした。
そんな時郵便受けに、郵便局のバイトのお知らせが届きました。
一瞬考えましたが、それは夜の10時過ぎからの10時間にも及ぶ過酷なものに加え、11月末から12月末までのスケジュールでした。
空手の忘年会は、12月19から始まります。
それだと忘年会に出ることは叶いません。
それに今までまったく仕事をしなかったというのに、いきなり昼夜逆転の深夜業――正直前向きには考えられませんでした。
そうして半ば絶望感と諦観の狭間で揺られながらまるでゆっくりと溺れていくような気分で過ごしている時、戦友のおごりで池袋のカフェでお茶している時、こういうのもあるよと、あるメールを見せられたのです。
そのメールは、11月25日から12月15日の間、お歳暮発送のお手伝いを募集するといった内容でした。
バリッ、と背筋に電流が走りました。
その日程。
あまりに僕の要望どおりでした。
そして時給が他のものと比べて一段とよく、週5,6で死ぬ気で働けば10万どころか12,3万は稼げそうな計算だったのです。
僕は即座に、戦友の手に縋りつきました。
「それ……それ、紹介して!」
運命が、回り始めたのを感じました。
派遣スタッフ?
ガチガチの説明会
どういうことなのかわからず詳しく聞くと、それは派遣スタッフという仕事体系でした。
田舎から出てきていたので、そもそも仕事といったものが少なかったので、日雇いや派遣というモノに馴染みがありませんでした。
だからこそ、発想も浮かびませんでした。
それに自信もなにも打ち砕かれていたので、そもそも雇ってもらえるとも思いませんでした。
しかし現状他に打てる手がない。僕は戦友に引っ張られるように派遣スタッフの会社へと赴きました。ちょうど戦友も会社に用事があって都合もいいとのことでしたから。
するとちょうどそのタイミングで説明会が始まるところだということだったのでそのまま飛び込みで受けることになりました!
その時点でガチガチに緊張していました。久しぶりの、お店以外の人との接触。
聞くと派遣スタッフとは、登録して、そして働きたい日時や条件を伝え、それに対して会社から仕事を斡旋する、というシステムでした。
そんなものがあるとは知らなかった私は、大学の時友達の紹介でやった引っ越しみたいだなと感じていました。
そのまま面接の流れになり、危惧も杞憂で終わり無事派遣スタッフとして登録を終え、そしてその場で戦友のメールを見せてこちらで働きたいとの旨を伝え、トントン拍子でその現場での初仕事が決まりました。
ずっとたゆたうように停滞していた日々から考えると、まるで急転直下の雷のような一日でした。ほとんど現実感なんてものとは無縁でした。
本当にまた働くとはどこか信じられない心地でした。
そしてもうひとつ、別の件が頭に過ぎっていました。
「思考は……現実化、するのか?」
その頃僕は、一冊の本に出逢っていました。
それはずっと、父の部屋の本棚に長い間並べられていました。なぜか僕は、それがずっと気にかかっていました。それこそが、先に述べた言葉がタイトルの本でした。
今までの僕は、とにかく現実主義でした。努力をし、甘い考えは捨て、ただ無駄を省いていく毎日。
それこそが現実であり、それだけがすべてだと考えていました。
楽しいという感情や期待など、ただの甘えだと――
「でもまだ、たまたまこうなっただけかもしれないし……」
僕はこの前送られてきたその本を眺めながら、未だ半信半疑の心地でいました……。
フワフワでハードは初現場
そんな半信半疑、どこかフワフワとした状態のまま、人生初の派遣に挑みました。
三ヶ月以上仕事をしていなかったのと、精神状態に未だ不安があったので、ちゃんと出来るか、不安しかありませんでした。
前日はよく眠れませんでした。
当日は、まさかの5時半に起きました。
仕事自体は9時からなのですが、立地の関係でこうなりました。
電車を乗り継ぎ、一時間半に1本しかないバスに乗り換え、8時半に現場に着きました。
そして30分待機したあと、仕事が始まりました。
ハードでした。
仕事内容としては、送られてくるビールなどの段ボールをベリベリ剥ぎ、中身を出してコンベアに乗せるという単純作業でした。
段ボールを素手で剥ぐなんて、やったことありません。
そもそもそういう構造になっていません。すぐに指と腕がきしみをあげ始めます。
それにビールがびっしり入っているので、重さもおそらく2,30キロくらいあります。
こんなもん何時間もやるものではありません。
一生懸命頑張りました。
ガムシャラに、必死になってやりました。とにかく今の自分にはこれしかないと、一切省みず励みました。
一生懸命やって――身体を壊す
その結果、初日の途中で腱鞘炎になりかけました。
あとで知りましたが、ああいう仕事は7時間も8時間もやるので飛ばしすぎず、身体を痛めたらすぐに報告するなどしつつ、調整しながら続けなければならないという話でした。
しかし僕は、そこで無理して続けてしまいました。
途中から腕の痛みを悪化させないように親指と人差し指だけ使って作業を続行し、なんとか初日の腱鞘炎は回避して、作業を乗り切ることが出来ました。
しかし二日目、変に庇ったせいか、反対側の手首の筋が悲鳴をあげました。
そこでも僕は我慢して、続けて、結果手が上がらなくなってしまいました。
そこで僕は現場責任者に報告し――叱責を受けました。
「痛くなったらすぐに言ってください!」
今考えると、至極真っ当な話でした。
こういう性格だから鬱になったんだな、と僕は遠い目になっていました。
結局そこでの仕事は、その日で終わりになしました。
会社に報告すると、怪我を治してください、とまたも物凄く当たり前の正論を言われたからです。
僕は、途方にくれました。
「……どうしよう?」
合計2週間分働くつもりだった復帰職が、僅か2日で終わりを告げてしまいました。
旅費すら稼げていません。
もはや絶望です。
僕はこれからどうするかを、改めてみんなに相談してみることにしました――というより、それより他にありませんでした……。
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