まっしろな夏と、黒いかげ⑥

2019年11月9日

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 ついさっきまでの僕は確かに動揺もしていたし、衝撃も感じていながらも、どこかまともじゃなかった。
 この毎年行われるキャンプという日常の中に、熊との遭遇などという非日常は、どうして現実感が持てなかった。
 だけど実際に叩かれて、頭から突っ込まれて、現実以外の何者でもない本物の苦痛を味わって、やっとそれが伴ってきた。

 痛み。

 死。

 それらのもたらす混乱に、どうしようもなく頭の処理能力が越えてしまって、胸を抱えて丸くなって現実から逃避したくなった。
 怖い、嫌だ、逃げたい、家に帰りたい、みんなと笑い合っていたい、おとうさん、お母さん……

 ――沙那。

「……はっ」

 そこまで考えたところで今の状況を思い出して、我に返り、顔を上げた。
 その瞬間、電撃のような衝撃が僕の体を走り抜けた。

 その瞬間僕の瞳に映ったのは、テントの隅まで後ずさり追い詰められた沙那の体にゆっくりと下りていく、熊の左爪だった。

 沙那――僕は痛みを忘れて駆け出そうとした。

 痛みはなかった。

 痛みが消えた。

 痛みだけじゃなかった。

 音も消えた。

 臭いも消えた。

 感覚も消えた。

 五感のうち視覚の以外の全てが消え去った。

 ただ目に映るものだけが全てになった世界の中、僕は駆け出そうとする。





 まるで世界がスローモーションになったような錯覚を覚える。最初の一歩。その一歩を踏み込むまで、たっぷり三十秒もかかっている気がする。
 その代わり熊の爪もゆっくりと下りていっている。
 その軌跡までがはっきりとわかる。
 その映像が強く網膜に残る。
 沙那は一歩も動かない。
 ただ呆然と振り下ろされる爪を眺めている。
 口を開けて、僕は聞き取れない叫び声をあげた。
 逃げろ沙那。
 立て。
 立って走って、逃げてくれ――。

 沙那は動かない。
 まるで幼稚園の頃に戻ったようなぼんやりとした様子で、今から自分に何が行われるのかわからないようにただ呆然とその爪が振り下ろされるのを見ていた。
 ゆっくりとしか動かない体をもどかしく思いながら、僕はもう一度届かない叫び声を上げた。


 熊の爪がゆっくりと沙那の右肩に食い込み、無惨に引き裂き、そのまま沙那は、頭からマットに叩きつけられる。


 小さな体がバウンドする。

 そして再び墜落したあとには、赤く丸い染みが、ゆっくりと広がっていく。

「――う」

 墜ちた沙那の体は、まるで何かの残骸のように見えた。

 瞬間、頭の中で何かが終わった。

「うわああああああああああああ」

 全身で叫びながら走ろうと思って、バランスを崩して床に転がった。

 途端冗談みたいな激痛が全身を暴れ狂う。見ると、左足が妙な角度に捻じ曲がっていた。
 そういえば、左の脛は砕けていた。そんな状態で走ることなど出来る筈もなかった。
 顔中に脂汗を流して、なんとか右足だけをたのんで立ち上がると、もう目の前に熊が迫っていた。

 好都合。

 僕は軸足には使えない、砕けた左足の脛を、熊の右側頭部目がけて見舞う。
 もう何も考えていなかった。ただ夢中で蹴った。
 その足目がけて、また左爪が振り下ろされる。

 この熊、左利きかよ……

 ごしゅ、

 そんな意味の無いことを回らない頭で考えながら、何かが磨り潰されるような嫌な音を聞き、僕の意識はそこで途絶えた――
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