武道家足る父との語らいその2

2019年10月11日

父との問答が続きました。

ならば武道とは、何なのか。

空手とは何なのか。

ただ殴って、蹴って、相手を倒す手段なのか。

父の答えは簡潔にして明確、そして深遠なるものでした。

元来の武道とは、そこから派生した、自らの体を守るため、命を守るために、手足を武器と化して、悪漢からの被害を防ぎ、逆退する術。

しかし、それは始まりに過ぎない。

すべてはそこから、そしてその中で相手の痛みを知り、差し伸べなければいけない優しさを知り、それをするに足るだけの強さを知る。

相手を叩きのめすために強くなるのではない。

自らに降りかかる火の粉を払うために強さを求め、その過程で痛みを知り、優しさを身に付け、そして守るべき人を守るための強さを得るためにそれを求める。

順序が逆だと気づきました。

意味を求めていては、それこそ武道のための武道、空手のための空手になってしまう。

それこそ空手形、実体のない虚空のもの。

子供の頃から空手をやっている、ある意味弊害なのかもしれないと思った。

逆に言えばこのレベルになってようやく理解できる話だと思った。

強さ。

武道。

空手。

優しさ。

追い求めるべき道。

ならば今、自分が理想とする空手はどうあるべきなのか?

守破離と言う考え方で見るならば、まだこれを先達に問うているようでは到底たどり着けないとは思いつつも、しかし開き直りではないが私にはまだこういう問答が必要だとも感じていた。

父の答えはいつだって簡潔だった。

それはこのレベルに達していない者にとっては、言葉足らずに思えるものだった。

その一言に、一体いくつの意味を込めているのか。

命を賭ける。

さすがに武道家足る父の言葉を全てここで晒してしまうのは気が引けるので、実はこれまででも色々と意訳させていただいている。

よってこの表現も、あくまで私の意訳である。

正直耳を疑った。

自分の攻撃を全て当てて、相手の攻撃を壱発もらわない、そう幼いころは聞いていた理想を、それを意訳とは言え、その考え方とは180度異なる発想。

正直にわかには受け入れがたい言葉だった。

しかし、自分の考え方の根本的な捉え違いを覚えていた私は、すでにそれだけの言葉でも、どこかとっかかりというか、何をっか言わんとするところはなんとなくではあるが察しかけていたと言うのは事実ではあった。

その言葉に、私は武道の本質を超えて――相手と相対すると言うことの意味、そして勝負を決すると言うことの難しさ、機微を直感的に悟りかけていたように思う。
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